こんにちは、ドクダミ淑子です。
日経xwoman(クロスウーマン)というWEBメディアに、はあちゅうさんの長文のぐだぐだインタビューが掲載されていました。
離婚祝いフラペチーノ→ネオ家族宮古島旅行→離婚の経緯と元夫についてを飛び越えた社会への愚痴掲載という急展開。
もう、「いつ終わりますか、神様…」「私ってもしかして子供出来ないんですか?」→「妊娠しました、たぶん男の子」の流れを思い出しちゃうよね。
妊娠を隠したままで「ファッション妊活」との批判も…… はあちゅうさん「叩くほうがおかしい」「ウソは書いたことない」 | ガジェット通信 GetNews
・・・というわけで、今回のタイトルは、こちらのオマージュです。
「愛されたかった」と言えればよいのに
まず、ざっと1回通して読んで、私はこう思った。
昨夜これ読んだけど、私には「愛されたかった」を、家事育児分担や男女が、世の中が、っていうもっともらしい言葉でくるんでいるように感じた。
— ドクダミ淑子 (@dokudamiyoshiko) October 21, 2022
事実婚したら、子供が生まれたら、彼は変わるかも…って思いながら、家に帰らない、🎄🎁もくれない彼に期待し続けてたのかな😥https://t.co/Hy55OZKaO7
今でも彼のことは好きですが、彼が「(私と一緒にいることが)うれしい」「(私のことが)大好き」という感情にあまりならず、結婚生活を維持するために、お互いにいらついたり我慢したりするのであれば「離れたほうがいいな」と。我慢の上に成り立つ生活スタイルはやめて、一旦、いろんなことから離れてみよう、という感じです。
けんかが続くと、「この人(夫)にとって私はもう『愛する対象』ではなく、『イライラをぶつける対象』になっているのではないか」と感じてしまうこともあって、それもとてもつらかった。恐らく私のほうが相手のことを好きだと思いますし、私は愛情表現が常にないと不安になるタイプなので「愛情がなくなったのかな」と悲しい気持ちになることも多かったです。
シンプルに「愛されたかった」「けれども愛されなかった」という話なのに、それをあれこれと社会がどうのとかいう壮大な理由をつけて語って、「私は悪くない」「彼も悪くない」「そう、全ては社会のせいなのだ」って自分自身を納得させようとしているんじゃないか?と思った。
人って、思っている以上に自分の感情と向き合ったり素直な気持ちを吐き出すことって出来なくて、ついつい格好つけたり、それっぽい言葉を重ねて自分を納得させてしまいがちなんだな・・・ということを思った。
昔、トイアンナさんがはあちゅうさんに訴えるアレコレが起こる前に書いたブログ。
やっぱり、トイアンナさんとはあちゅうさんは似ているなぁと感じてしまう。
私も含め、私大文系こじらせ女(ついでに高学歴)の量産型モデルなのかもしれない。
無駄に弁が立つから自分自身の気持ちをペラペラと言葉で塗りたくるあたりが。
育児がずっと嫌だった
さて、冒頭の日経xwomanの記事に戻って。
読んでいると、突然、女は100%母親になって育児をするのに男は今までの生活+父親だから飲みに行ったりするんだ!男女の違い!と言い出します。
夫側にも「これでも頑張っている」という言い分があるでしょう。ただ、私は「子育てにしても家事にしても、私がやることを前提にすべてが進んでいる」と感じていて。その辺りでお互いが見える景色が違ったのだと思います。
男女の違いなんだ!と言って、しみけん氏が育児をしない問題を社会問題と位置付けて自分を納得させている、とのこと。
「彼は」を「男は」にすり替えるのは、主語を大きくし過ぎかもしれませんが、<中略>でも、「男は」の枠に収めることが、私の気持ちの落としどころであり、希望でもありました。私は彼を大好きで、憎みたくないし、憎まれたくもない。
ここが謎だった。
なぜ、個人の問題を社会問題にすり替えるのか?
もしも社会が変わったとしても、本当に彼は変わるのか?仕事が終わったらまっすぐ家に帰り、子供と一緒に晩御飯を食べてお風呂に入れるパパになったのか?
・・・ならないだろう。
たとえ家にいても双子(最初の奥さんとの子供)がお風呂に入る時にも何もしない男だぞ?
「彼が悪いんじゃなくて、社会のせいなのだ」と言い続けることで、肝心な「彼がもう、自分を愛していない」という悲しい事実から目を背けているのではないだろうか?
つらいと言ったら仕事の合間にちょっと来てくれたり、一緒にラーメン食べて慰めてくれたり、お土産を買ってきてくれたりした彼は、もういないのだ。
振り返ると、結婚・出産以前の私は、はやりのレストランなどの情報をInstagramにアップしていました。それが今では、「子どもとこんなおもちゃで遊びました」「こんな場所に子どもと行きました」という情報ばかり。「子育てを楽しみたい」という気持ちももちろんあります。でも、子育てと発信の仕事を両立するために合理的な方法を選んだ結果こうなったとも言えます。
「子育て情報を発信したいわけじゃなくて、生活全てが子育てになったから流れで発信内容が変わった」と言い出す。
あの・・・子供がずっと欲しかったんですよね?
子供って、産んだら育てなきゃいけないんですよ?
ヨギボーがずっと欲しかった
さて、そんなはあちゅうさんは、離婚のタイミングで、ずっと欲しかった子供・・・ではなく、ヨギボーを手に入れたそうです。
そういえば、先日はビーズソファの「Yogibo(ヨギボー)」を買いました。以前は家が、夫の筋トレ道具であふれていたんです。それがなくなったことによってスペースが生まれて「ここに、ずっと欲しかったヨギボーを置ける!」と思って。私と夫は、椅子の好みが違いました。ソファを買うときもお互いに譲り合うか、どちらかが強行突破するしかなかったんですが、「これからは、私の好きな座り心地の椅子を買えるんだ。全部自由なんだ」と感じて、「一人」の良さを早速味わいました(笑)。
前の方に「お伺いを立てる」とか書かれていたけど、これを読んでも、結婚が問題だったのではなく、事実婚だから解決するわけでもなく、単に2人の性格の不一致で、はあちゅうさんと元旦那さんとの関係が、はあちゅうさんが嫌われたくないがために勝手に気を遣っていただけなんじゃないかと思ってしまう。
「夫婦としての距離が近くなり過ぎた」と冒頭に書いてあるけれども、そうじゃないと思う。
距離が近くなり過ぎたのではなく、果てしなく遠くなってしまったのだ。
1人で生きることが、「自分の人生を生きる」なのか?
はあちゅうさんは、この前半のインタビューで、「自分の人生を生きる」と言うために「休婚」をした、と言っています。
私はこのくだりも違和感があって。
他人と一緒に暮らすと、それは「自分の人生ではない」ということなのだろうか?と思ってしまう。
はあちゅうさんは例として、「韓国語を習ったのは心のどこかで夫の仕事の力になればとか、家族で長期滞在できればとか思っていた」と挙げていますが、それがなぜ「自分の人生を生きていない」ということになるのだろうか?
100%自分のために使う時間を持ち、他人の(家族の)都合に振り回されることなく、自分のやりたいようにできること。
・・・それが理想かというと、私はそうではないと思う。
子どもの習い事や送り迎え、学校行事、家族の介護・お見舞い・通院の付き添い、夫の友人が来るホームパーティー、夫の転勤、事情あって子どもの転園や転校を検討する・・・色々なことで、「自分の生活」を誰かに合わせることもあるだろう。
でも、それが「自分の人生ではない」と言ったらそうではないと思う。
韓国の話も、そうやって、家族と関係した新たなことを始めることで、自分が変化するのは良い事だと捉えられないのだろうか?
(余談ですが、はあちゅうさんの息子さんは「はたらくくるま」が好きなようですが、はあちゅうさん自身は、働く車の違いや名称を全然覚えてなさそうですね。子鉄・ママ鉄って知ってる?)
この「誰かに合わせることで自分の人生が損なわれる」みたいな考えを突き詰めていくと、最終的には「息子と母親が邪魔」となるのではないか?と思ってしまう。
上手く行かなかったら距離を取る。
・・・そうやって、問題を解決して一緒に居続けるを選ばなかった人が、これからの人生少なくとも20年弱くらいは嫌でも何でも一緒に居なければいけない家族を抱えることが、心配で仕方ない。
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