ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

私の産後は、いつまでも続きません


こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

人の振り見て我が振り省みるワタクシ、はあちゅうさんの土曜日noteを読むと、自分が何を思い、何を大事にしているかを考えることができます。

・・・ということで、今回は時間が経ってしまい、きっとそろそろ有料になるんじゃないかというこちらの感想を。

 

note.com

 

先日、お尻周りのトラブルで病院に行った。

…とぼかして書くとどうってことないけど、ストレートに書くと、痔になり、肛門科に行った。こう書くとなかなかインパクトがある。

 

「お尻周りのトラブル」とぼかされても、「痔か性病かな」としか思わないんですけれどもね。

そして、はあちゅうさんが痔であろうとなかろうと、どうってことないんだけどね。

「私ってば有名人だから、Yahoo!ニュースに載っちゃう~ドキドキィ」と思っていたならおめでたいですね。

仮に載ったとしても、コメント欄は「誰?」と「痔になっただけでニュースになるか?Yahooニュースの存在意義ィ」と「元旦那に見てもらえ」みたいなのしかないだろうなと思う。

 

まぁ、そんな冒頭のくだりはどうでもよくて、気になったのは中盤の部分。

出産で色々身体が変化しての愚痴オブ愚痴の後に、取って付けたような部分。

 

出産のきつさや体の変化を嘆くと「でも、我が子を見ると、つらいことが全部吹っ飛ぶでしょう~」とか言う人がどこからか湧くから、あらかじめ言うけど、出産のきつさと我が子への愛情は全くの別物で、私は「産まなければよかった」と思ったことは一度もない。産んでよかったと毎日思っているくらい、息子への愛情は深い。

 

これを読んで、即座に「嘘くさいな」と思ったのですが、その理由はどこにあるのだろう?とよく読んでみると「産んでよかったと毎日思っているくらい、息子への愛情は深い」というところが違和感だらけだからだなということに行きつきました。

 

 

毎日、「産んでよかった」と思う!?

これは個人的な感覚だし、彼女と私はタイプが違うからかもしれないけれども、私はもうすぐ3歳の我が子を見て、「約3年前のあの時、産んでよかったな~」とは思わない。

 

・・・というか、最近は「こんなにかわいい生き物が私の腹の中から出てきたなんて信じられない」と思うし、仮に私の腹の中から出てこなくてコウノトリが我が家の玄関に運んできたとしてもかわいくてたまらんぞ!と思っている。

 

私が我が子がかわいいと思うのは自分が産んだからではない。

「かわいいから、かわいい」なのだ。

そこに「お腹を痛めて産んだ子だから」なんて理由なんてない。

 

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でも、はあちゅうさんはきっと「私がつらく苦しい思いをして産んだからかわいい」のだろう。

というか、それって「かわいい」と思い込もうとして理由を作ってるんじゃないの?大丈夫?と思ってしまう。

 

 

自分ファーストが止まらない

こういう、言葉の端々をとっても、自分が可愛くて仕方がなくて、息子が可愛いのも自分が産んだからで、4歳の子を育てながら毎日「産んで良かった」と思いながら自分の頑張りを称えているのだろう。

「私が産んであげたから、貴様はこの世で生きていられるんだぞ?」くらい思っているかもしれない。

元旦那さんも「私があなたの子を産んであげたんだから」と一生いわれ続けるのだろう。

 

なんか、自分大好きで自分主語でしか物事を語れなくて、「自分が産んだ息子」「自分を育てた母」「自分が恋した元夫」「自分のことを褒めてくれる友達」と、自分ありきで周りの人達を認識しているのではないか?なんて考えてしまう。

それでいて「主役/脇役」とか「陽キャ/陰キャ」とかでカテゴライズして、「私は陰キャ・・・ぴえん」みたいに言って、「そんなことありませんよ!」とフォロワーに言わせて喜んでいる。

 

「自分は集団の中でキラキラ光るようなキャラじゃない」ということを実感しつつも、それでも「私私私!自分自分自分!誰か私を褒め称えて!」と叫んでいるように見えてしまうのだ。

そのくらい、彼女が書く文章からは、「人間同士として関わり合う我が子の姿」が全く見えてこない。

「私が思い描く、私の息子」ってものしか見えていないのではないか?と思えるのだ。

 

 

自分の子育てに自信がある?

はあちゅうさんは、よく、「子育てで悩むことはない」「自分は息子を幸せにできる自信がある」と書いたり口にしたりする。

そんなに自信があるのはすごいな、と思う一方で、その自信はどこから来るのだろう?と私は不思議に思う。

 

子育てなんて、やっていると心配になることや悩むことだらけだ。

 

叱っても「これでいいのだろうか?」と悩み、叱らないようにしても「こんな甘やかして大丈夫だろうか?」と悩む。

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保活だって幼活だって、「選ばなかった道」の方が子どもにとって良かったかもしれないと思うこともある。

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少し前に「ちょっと左利きっぽいけど右利きでとりあえずやってみるか」と決めたんだけれども、それだっていまだに悩んでいる(ハサミは絶対に右利き用が使えた方が良いと私がごり押したけれども)。

 

どちらが正しいかなんてわからないけれども、どんどん短期間でちょっとずつ選択をしながら進んでいく子育てで、「悩まない」というのはどういうことなのだろうか?

もう、「何をやっても子どもが育つようにしか育たない。結果は変わらないから自由にやらせる」と悟りを開いているのか、自分に絶対的な自信があるから自分の選択に間違いなどないと思っているのか、それともそもそも育児をしていないのか・・・

 

よくわからないけれども、悩まないってすごいなぁと思う。

 

そのくせ、「毎日産んでよかったと思う」なんでしょ?

なんかもう、産んだことで最大にして最高のミッションをやり切ったから、あとはおまけみたいに考えているのかもしれない。

 

 

「産んだ時」よりも「今」を見ていたいよね

今、もうすぐ3歳の我が子は、本当に著しく成長している。

それを見ていると、「産んだ時」のことなんて毎日思い出していられない。

 

はあちゅうさんの「産んで良かったと毎日思っている」を読んで、私は今よりもっと我が子の「今」をちゃんと見ようと思った。

 

私の「産後」はもう終わっている。

帝王切開の傷も消えていないし、もう少し年を取ったら「出産のダメージが・・・」ってなるかもしれないけれども、「まだまだ産後」「私をいたわれ」なんてことを要求することはない。

もう夫と二人三脚で子どもの「発育」を見守り、親としてより良い道に導いていくフェーズになっている。

 

「産んだ時の私」よりも「今の子ども」をちゃんと見ていたい。

 

少々大袈裟だけれども、はあちゅうさんのnoteを読んで、こんなことを考えた。

 

 

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