こんにちは、ドクダミ淑子です。
ある日、色々な人の色々な言葉を見ていて「他人が、自分の思い通りにならないなんて当たり前なんだけどな」と思いました。
たとえば、「子どもが○○食べたいって言ったのに食べなかったから腹立って捨てた」とか、「私はこういう気持ちでこういう意図で投稿したのに、コメントではこういう意見が多くて誠に遺憾である、訴える」とか、「夫にこう言ったらこう返ってきて、私の気持ちなんてちっとも察してくれない!」とか、「私が育児で仕事を減らすことに対して周りから冷ややかな目で見られる。子育て世帯に優しくないスーパー男尊女卑国JAPAN」とか・・・
どこもかしこも、他人が自分の思ったようなリアクションしてくれると思い過ぎやしませんかね?
他人が思い通りにならないなんて当たり前すぎて
私からすれば、他人が自分の思い通りにならないなんて当たり前すぎて、もう怒る理由なんてわからないんですよ。
子どもだって他人だから、常に自分の思うように動くわけではなく、自分の想像するリアクションを取ってくれるかどうかなんてわからない。
アンパンマンのかまぼこ(めちゃくちゃ高い)だって、喜ぶ日と食べない日があるし、お風呂に入りたがる日も、お風呂に入らないでリビングで遊びたい日もテレビ観たい日もあるんですわ。
それをいちいちイライラしていても仕方がなくて、その中でどう上手くやるか?を考えるのが親の仕事だと思っているんですね。
それは仕事も一緒で。
契約書とか期日になっても返してくれない人なんて、ざらにいるんですわ。
それを「仕事なんだからやれボケェ!」と言えたら楽なのかもしれないけれども、相手にも相手の都合と優先順位と記憶力の容量ってものがあって、その中でできるだけ上手く動くしかないんですわ・・・
・・・とやっていると、「ドクダミさんがお尻を叩いてくれるから安心」みたいなクライアントが増える。
家族だと余計期待が高まるんだろうか?とも思うんだけれども、そういう人って仕事でも相手に多くを求めすぎているような気がする。
子供嫌いの人がいるのも「多様性」の1つですし
あと、「子供が泣くのは当たり前」みたいな態度の人も、私は好きじゃないですね。
そりゃ、子供が泣いているのにものすごく嫌な顔をしたり怒鳴りつけてくる人は嫌ですけれども、子どもの声が気になるとかストレスになるって言う人もいるだろうと思うし、「子供嫌い」っていうのも多様性の1つなんですわ。
「子供=誰もが好きでいなければいけなくて、泣いても何しても”子供は泣くのが仕事だからねぇウフフ”みたいなリアクションしなければいけない」みたいな方がおかしいんですよ。
それを、子供が泣く=その場にいる全員が優しく見守りつつスルーしてくれるべき、と思うのが間違っていると思うんですよね。
ドレスコードがあるのと同じように、子連れNGの場所や店があるのも、静かで落ち着いた環境を楽しみたい人からすればアリだろう。
この「子供に優しくない人がいる」の愚痴も、他人が自分の思い通りになると思いこんでいる人からのものなのだろうと思う。
そうじゃなくちゃ、「世の中にはそういう人もいるよね」でスルーするような問題だから。
結局「自分は正しい」って思考からは離れられないのだろうか?
そんなことを思いながら、はあちゅうさんの土曜日noteを読んだ。
内容としては、乗れるスーツケースに乗っている3歳児をSNSにアップしたら「歩かせろよ、過保護だな」「子供を甘やかすな!!」とコメントがついてムキ―!となっているという話なんだけれども、それを読んでいて、結局この人も「自分が正しい」「自分の思うようなコメントをしないと腹が立つ」なんだろうなと思った。
インスタでたまに「アンチではないんですが...」から始まる、批判的な意見を受け取ることがあるけど、なんだかとても似ている。このフレーズから始まるDMは、言い方こそ丁寧だけど「私は正しい、あなたは間違っている」という前提に立った押し付けがましいものが多い。「良かれと思って」いる人たちは、自分の「良かれ」が間違っているとは夢にも思っていないのだ。
もうすぐ4歳になるちょっとぽっちゃりした子をベビーカーに乗せてふんぞり返らせていれば、お節介なジジババが「歩かせた方が良い」と言いたくなる気持ちもわかる。
「他人のベビーカーが許せない大人たち」というタイトルだけれども、「他人のベビーカーが許せない大人たちを許せない大人(=私)」という内容なのだ。
結局、どっちが正しいか合戦をしているだけじゃないか・・・
子育てでも仕事でも何でも、「自分はこう思うけど、そう思う人もいるよね」「自分はこうしてほしかったけれども、相手はそうじゃなかったんだね」と受け流せないと、しんどくなって文句ばかり言うようになるんだろうな、と、思ったのでした。
こちらもどうぞ