こんにちは、ドクダミ淑子です。
気づけば、随分遠いところまで来てしまったな・・・と思う、今日この頃。
ウンコチンコ言っていました
小学校5年生の時の担任の先生(男)の奥さんが妊娠していて、しかも女の子だと聞いて、私と友人たちは名前を考えながらキャッキャしていたんですね。
「運の良い子で、『運子』なんてどう?」
「ギャハハ!じゃあ、珍しい子で『珍子』もいいんじゃない?」
そんな感じでウンコチンコ言いながらギャーギャー騒いでいたのですが・・・
あれから27年が経とうとしてるの!?
こわっ!マジでこっわー!
・・・って感じなんですよ。
私の精神なんてそのくらいの時からちっとも成長していない気がする。
自分の感覚として。
まぁ、いい年した大人なので、人前ではウンコチンコ言わないですけど、心の中ではあの時と同じくらいのレベルのことを考え続けているような気がしてならないのです。
その私が、人の親になってる!?
時々、そんなことに気づいて「人ってなかなか大人になれないな」なんて思う。
「誰かのため」に生きられるのは大人の証拠だと思う
でも、そんな私でも、自分のことを大人になったなと思う瞬間がある。
たとえば、こんな同い年を見た時。
はあちゅう氏、ワーママの苦しみをつづりながらカフェと焼肉を堪能する | ドクダミ淑子の別荘
はあちゅうさんは常日頃から、自分以外の人間のせいで自分の時間が浪費されたり、お子さんの都合で自分の予定をリスケされることに対して超敏感なんですよね。
昨日の記事では割愛しましたが、
息子が、息子が腹痛を訴えた後、
病院に行ったらやっぱり痛くないといったので
いったん預けにいき...そうしたら、預け場所の玄関で
やっぱり痛いと言い出したので
また病院へ...と、タクシーで病院を
行ったりきたりしたんですよね...。
いつも通りって幸せだ | はあちゅうオフィシャルブログ「お買い物日記」Powered by Ameba
これはある方が「仮病じゃない?」と言っていて、有り得るなぁと思いました。
何度目かの便秘かもしれないけれども・・・
仕事(と本人が言っているから焼肉も仕事なのだろう)と子どもの看病で悩むなんて、ワーキングマザーが最初にぶつかる壁なので、はあちゅうさんも初めて子どもを預けて働くようになったか、超健康体の息子さんで今までそういう経験がなかったか、はたまた今まではお母様にこっそり預けていたかは知りませんが、壁にぶつかったということなのでしょう。
自分の都合と家族の都合がぶつかった時、家族の都合の方を優先させるのが(もちろん葛藤はあるんだけれども)当たり前になりつつある私は、自分が「そういうことができる人間」になったということを嬉しく思う。
その分のもろもろの調整とか、巻き返しとかは正直めちゃくちゃしんどいけれども、そんなことばかり、自分の都合ばかり考えていると人生の中で何か大切なことを失う気がしてならない。
そんな私でも、応援してくれる会社がいて、手伝ってくれる同僚や上司がいて、(激務で平日はほぼ戦力外だけど)理解してくれている夫がいて、ついでに「いいですよ」と言ってくれるクライアントがいることは、とても嬉しいし、これこそ、今まで積み上げてきた仕事の成果なのだろうな・・・と思う。
社会が優しくは大前提なんだけど
はあちゅうさんはこういう時に「社会がー」とか「女性がー」とか言うんだけど、そばについてのケアが必要で、1人では生きていけないような幼児を、特に体調が悪い時に、保護者が世話すること以外にどんな選択肢があるのだろう?と思う。
「社会」が優しくて、体調不良の子を預けるシステムがあり、それで親が仕事ができれば、万事解決なのだろうか?
それで「私はワーキングマザーです!」って言い切れるのって、すごくない?
しかも、仕事とか予定って「代官山のカフェのプレオープン」「今月オープンしたばかりの焼肉屋」ですよ?
仕事と言ったら仕事なんだろうけど、それってその日じゃないといけないの?(特に焼肉屋の方)
「社会が働くママに優しくない」と言ったら、たしかにそういう面もあるんだけれども、「働くママに優しい環境」に身を置けるかどうかも自分次第だし、産む前にそれに見合った実力を付けられるかどうかも自分次第だど思うんだよな。
そして、それができないくせに「子供のせいで仕事ができない」とか言っちゃうのは、あまりにも幼くないか?
・・・と、子どもが熱を出したら否応なく仕事を休んで、どうにか調整する私は思うのだ。
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