ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

映えない生活の中にある幸せについて


こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

何かにつけて「幸せになる」と宣言しまくっている人が、いつまで経っても幸せになっている気配がないのを見て、「幸せってなんだろ・・・」というポエマーな気分になっています。

 

 

幸せとはなんぞや

「幸せ」って何なんでしょうね?

 

・・・と書くと、安野モヨコ沼にハマッた経験のある私なんかは、すぐにハッピーマニア(無印)のラストシーンを思い浮かべてしまうんですけど。

 

シゲカヨは続編の『後ハッピーマニア』でも暴走機関車をし続けていて、これは漫画だから面白いけど現実だとしんどいよなぁと思ってたりもする。

 

www.dokudamiyoshiko.com

 

まぁその話は別の機会に書くとして。

 

私は、幸せってそんな大それたものではなくて、日々子どもと一緒に喋ったり笑いあったり、そういうことの積み重ねだと思う。

今、その最中にいる時はそれが幸せだと思わないけど、少し離れてみたり時間が経ったりした時に、「ああ、あれは幸せな時間だったな」と思うようなこと。

それが幸せなんじゃないかと思う。

 

そこに「他人から見えて幸せかどうか?」という観点はなく、むしろそうやって他人からの現時点での幸せ評価ばかり追いかけると、子どもが行きたくもない映えスポットに行って、幸せそうに見える写真を撮ってSNSにアップしていいねの数をキリキリと見るみたいな、本来の幸せとはかけ離れたところに行ってしまうのではないか。

そんなことを、保育園の帰りにいつもだいたい同じ公園に行き、はしゃぐ子どもを見守りながら、時には自分もすべり台で滑りながら、考えている。

 

 

「幸せになる」ではなく

童話の青い鳥の話も思い浮かべるんだけど。

遠くにある幸せを追いかけ続けてハワイやオーストラリアやドバイや御殿場へ行っても、そこに幸せがあるわけではない。

目の前にある幸せにどう気づいて行くか?の方が重要だと思うのだ。

 

だから「幸せになる」と宣言して、周りから「幸せそうですね」と言われて、「私は幸せになった」と思うことではなく、今そこにある幸せに気づけるかどうかが大切なのだ。

 

幸せとは「なる」ものではなく、「気づく」ものではないかと思うし、気づく力が下がればどんどん視点が狭くなって、さらに幸せに気づけなくなっていくのではないか?なんて、彼女をみていると思う。

失ってから気づく幸せなんて、悲しすぎるよなぁ・・・

 

 

子どもがいても個人としての私でいたい

ここ最近のはあちゅうさんは、子どもがいても自分の時間を大切に!に振りきっていて、私はそれがとても心配になる。

どの先輩に聞いても、「子どもと一緒にいられる時間なんて一瞬」と言われる。

ドバイに行くのも結構だけれども、そうやってしている間に子どもと過ごせる時間がどんどん減っていて、子どもからの「ママはいつもそばにいて自分の味方をしてくれている」という安心感も下がっていると思うんだけど、そうやって「子どもと一緒にいることで感じられる幸せ」を自ら逃しているということに気づかないのだろうか?*1

 

その上で、「私は、幸せ王に、なる!(ドドン!)」と、平日遊び回っていて、土曜も日曜も(時々)保育園、祝日(パパが来ない日)もシッター・・・ってなると、ママにも休みを主義者の私も、「子ども、邪魔なんスか?」と聞きたくなってしまう。

 

子どもは、特に幼児期においては、家族がそばにいてあげることが心の安定に繋がるなぁと、我が家の3歳を見ていてすごく感じる。

家族と一緒にいることが、子ども(幼児)にとっての一番の幸せだということは、そしてその幸せは親が作れるものだということは、幸せハンターとしてハッピーマニア*2する前にきちんと意識した方がいいんじゃないかな?と思うな。

 

 

こちらもどうぞ

*1:もちろん、ママの1人時間は大切だとは思うけれども、わざわざドバイに5日間となると、どうしても「それ、今必要?」と思ってしまう。私自身は、平日働いていると子どもと過ごす時間がすごく短いなと感じていて、その上で5日も旅行しようなんて考えられない。旅行するなら子どもと行きたいし。

*2:ちなみにハッピーマニアの主人公、シゲタカヨコには子どもはいない。