こんにちは、ドクダミ淑子です。
子どもと接していると、時々、犬を飼っていたころのことを思い出します。
もう、死んでから10年以上経っているんだけれども。
中型~大型犬を飼っていました
実家で飼っていた犬は、体重20キロくらいの中の上くらいのサイズだった。
そこそこの大きさだったんだけれども、うちの家族は全員が初めて犬を飼うということもあって、幼少期の躾がうまくできず、まぁまぁの暴れん坊だった。
普段はおとなしいんだけれども、他の犬、しかも仲の悪い犬が来ると、ワンワン言いながら近づこうとするので、リードをがっちり持って、両足を踏ん張りながら犬の暴走を止めたりしていた*1。
そんな犬は、時々狂ったように電信柱やら草むらのにおいを嗅ぐことがあった。
発情期とかだったのかもしれない。
5分くらいずっとクンクンとにおいを嗅いでいて、ちょっと離れてもまたそちらに吸い寄せられて行って、またクンクンやっている。
何が楽しいのか、どうしてそんなに興味を持つのか、私には全然わからないけれども、本人的には夢中になっているし・・・と私は立ち尽くしながら、クンクンする犬をずっと見つめていた。
そうやって「気が済むまでやってくれーい」と犬を見つめていたことを、同じく「気が済むまで石を拾って積んでくれ」みたいな気持ちで子どもを見ている時、ふと思い出したのだ。
気が済むまでやって頂戴
以前も書いたけれども、私はわりと「気が済むまでやって頂戴」と、ボケーっと見ているだけのことが多い。
よく言えば、「見守っている」だろうか。
このやり方は、20年近く前に犬と接したことで見出したものなのかもしれない。
犬と人間を同じ扱いをするのか?と思うかもしれないけれども、イヤイヤ期の2歳児と中型犬の頭脳は似たり寄ったりだと思うし、犬もまた家族だ。
そういえば、二人で座ってボーっとしている時も、私は犬のことを思い出していた。
なんでも気が済むまでやらせれば満足して帰るし、途中で止めると逆効果で執着することがある。
太鼓の達人は、毎日ゲーセンに行っていたら2週間くらいで飽きたし、平日はガチャガチャしなくても生きていける身体に戻った。
限界までやらせる、飽きるまでやらせるというのは、やはり効果があるらしい。
爆買いに手を焼いている
ただ、最近困っているのが「爆買い」。
うちの子は身長90センチくらいのくせにカートにカゴをセットして押して歩くということが出来るようになっている。
ただ、そこから「これだ!」と思ったものをガンガンとカゴに入れたがるのだ。
これは、止めねばならない・・・
そして、ママが珍しく止めるものだから、執着するのだ。
時々、これと同じような現象が起こる。
子どもは爆買い欲が炸裂しなければわりといい感じに買い物をするんだけど、発動してしまうと大変なことになる。
そして私には、週末に買いだめして作りおきなどして平日にスーパーに行かないで済むほどの食材管理スキルはない。
それに、「今日はストックがあるから買い物しなくていい」は通用しない。
日々の積み重ねで「スーパーへ行く」はもはや子どものルーティンの一部になっているのだ。
飽きるまで付き合うしかない
爆買い問題については道端で石だの棒だのを拾っているのと話が違って、お店に迷惑をかける問題なので、たとえかえって執着されようとも2個目以降はストップさせたりしつつ、飽きるまで付き合うしかないなぁと思う。
(1個までなら、特に必要ないものでも買ったりしている。)
とことん、気が済むまでカートに詰め込ませてみたら、きっと2週間くらいで飽きるのになぁ・・・と思いつつ、気づいたら3ヶ月くらい、「もういらないよ?」「1個までね」「辛くて食べられないよ?」とかやりながら、仲良く買い物をしている。
まぁ・・・なんだかんだで迷惑ですけどね。
うるさいし(主に私が)。
時々ウワーンって泣くし(主に子どもが)。
シャインマスカットも晩白柚も買いますのでどうか許してくださいと言う気持ちでいる。
10年があっという間に感じる
犬が死んでしまってから、今年で12年が経つ。
・・・っていうことは初めて会ったのは24年前くらいだ、時の流れが怖い。
でも、今もなお、一緒に歩いた記憶や、ちょっと臭い体臭とかウンコの臭いとか、撫でた時の意外とごわごわした感じとか、ふわふわの部分とか、息づかいとか、色々なことがリアルによみがえってくる。
子どもと犬は全然似ていないけれども、子どもと一緒にいると、時々犬のいた時代を思い出す。
なんというか、両方とも私の家族だし、私の心の中で大きな面積を占めている存在なんだなぁ・・・なんて、当たり前のことを、改めて思う。
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*1:次に犬を飼うことがあったら、幼少期の躾は絶対にちゃんとしようと思っている。最初の1年が勝負だと思う。