こんにちは、ドクダミ淑子です。
いよいよ「職場復帰」という言葉が真実味を帯びてきた、今日この頃。
いやいや、今まで何していたんだ?って思うかもしれませんが、この生活に慣れ過ぎて、というかあれやこれやでバタバタとしているので、あまり仕事のことについて考えている時間がなかったんですよね・・・
本当に、2年前の自分を思うと、信じられない。
去年の自分も、「仕事していた自分のことを思い出せん」「っていうか戻らないかも」みたいなことを書いていたな。
さて、そんな育児休業にどっぷり浸かっている中で、しみじみと思ったことがあります。
「世の中は、皆で動かしているんだな」ということ。
世の中を動かしているという驕り
仕事をしていると、半分はオフィスの中でいつも同じメンバーで働き、半分は外出してクライアントのオフィスに行く・・・という感じだったのですが、そうするとなんとなく「事件は会議室の中で起こっている」みたいな感覚になっていました。
そして、会議室の中で、またはPCの中で、世の中を動かしている・・・みたいな感覚になってしまっていた。
極端に言ってしまえば、世の中は、動かす側と動かされる側の2つで、「私はそのうちの動かす側だぜ」みたいな、驕り。
そこまで傲慢な感じではないけれども、なんとなく、そんな気持ちになっているこの感覚、わかりませんかね?
仕事をしている時もそういう感覚に薄々気づいていて、だから私は「取材」をちゃんとやって、実際に働く人の感覚をちゃんと持とうと意識していました。
それでも、なんとなく「世の中を動かすぜ」みたいな感じは、ずっとあったんだな。
誰も彼も、ちっぽけな存在なのだ
そんな私ですが、1年半くらい仕事をせずに、毎日スーパーに行って公園に行って・・・って生活をしていると、そんな驕りなんて綺麗さっぱりなくなりました。
というか、私自身が今まで思っていた「動かされる側」に入り、見え方が変わったことで、今までの自分の驕り高ぶっている面に気づいた。
公園で遊ぶ親子も、公園のベンチで座っている高齢者も、スーパーで買い物をする人も、軒先で立ち話をするご婦人たちも・・・皆が生きている事で、世の中が動いているんだな、ということがひしひしと感じられた。
そして、自分がちっぽけな存在だと思えた。
それは、良い意味で。
「歴史に名を残したい」とか「記憶に残るようなものを作りたい」とか、大きな夢を持つことは悪くはないけれども、大抵の人は、自分の名前が後世まで語り継がれ、伝記が残り、どんな人物だったか理解される・・・なんてことはない。
100年弱(個人差あり)かけて、世界がほんのちょこっと、0.01mmくらい動く働きをして、死んでいく。
「人が死ぬのは、忘れられた時だ」とか、聞こえの良い言葉だけれども、実際は自分の孫が死んだら忘れられるだろう・・・ってことは、せいぜい自分の生きた年+孫が死ぬまでの80年くらいしか誰かの記憶にだって残らない。
でも、それがどうした?
だいたい、自分は「世界を動かすために生きているのか?」っていうと、そうではない(そう思っている人もいるかもしれないけれども)。
たまたまこの地球に、この日本に、あの家族の元に生まれただけじゃないか。
それで、普通に生活して、普通に仕事して・・・自分が満足する生き方をして、死んでいけばそれでいいんじゃないの?
世界を動かすとか、記憶に残るとか、まぁ別に意識してもいいけれども、「生きているだけでOK」はもっと大事なことだと思うだよな。
世の中は、皆で動かしているのだ
改めて。
世の中は、ちっぽけな人間が1人1人生活して、(仕事含めた)色々な活動をしていくことで、その結果としてほんの少しずつ動いていくものなんだな・・・と思う。
そこに、「動かす側/動かされる側」もないし、もちろん上下もない。
皆が皆、「動く側」なのだ。
・・・ということを、職場復帰後も意識して生きていきたいと思う。
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