ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

萌えキャラは本当に「容疑者」なのか?

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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

以前書いたブログに、コメントをいただきました。

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今回は、このいただいたコメントを読んで、私が改めて考えたことをまとめていきたいと思います。

 

テーマは、「萌え絵と性犯罪の関連性について」で、特にエビデンスはない、私の捉え方の話です。

 

とてもデリケートかつ賛否が分かれる話になりますので、もしかしたら「今までは好意的な目で見ていたけど、これを読んで嫌いになった」って人が出るかもしれないけれども・・・出来る限り「当事者」「経験者」のことを考えながら書いていこうと思います。

 

 

一定の確率で存在するものだと思っている

まず、私は犯罪を起こすような人は、世の中に一定の確率で存在していると考えています。

ある程度の人数の人間がいたら、そういう人も存在してしまうのではないか?

 

私のスタートラインはここなのです。

 

だから、どうやって「犯罪者が生まれることを防ぐか?」というのは、あまり意味がないと思っていて、犯罪を起こさない側の人間としては、どうやってそういう人に近づかないようにするかとか、何かあった時にどうやって対応する(逃げる)かとか、そっちの方が重要なのではないかと考えている。

また、「親の育て方が悪い」というのも、そういう場合もあるかもしれないけど、育て方関係なく犯罪者になるのではないか?と思っている。

厳しく育てても、ネグレクト気味で育てても、虐待されて育っても、「そうなってしまう人」は出てくるし、逆に「そうならない人」もいるのではないか?と。

 

 

生い立ちや趣味嗜好を追いかける意味があるのか?

そういう風に考えているから、凶悪な犯罪が起こってしまった時に、容疑者の生い立ちや家族構成や卒業アルバムや学生時代の作文なんかが出てきて、容疑者はこれまでこういう人生だったんだろうと想像して論じることは、あまり意味がないと思っている。

意味がない、というか、「その人はそうかもしれないけど、同じ境遇の人がみんなそうなるわけじゃないよね」と思っている。

 

容疑者の家族が責められるのも同じで、家族のせいで犯罪者に育ったとも、あまり考えられない。

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よく取り沙汰される「容疑者はオタクでした」っていうのも同じで、「いやいや、オタク=犯罪者予備軍みたいな言い方どうなん?」と思う。

 

冒頭の件の中で、「アダルトコンテンツに誘発される人が1割いる」というコメントがあり下記のサイトを紹介いただいたのですが、残りの9割はアダルトコンテンツ関係なく始めたのなら、関連性は本当にあるのか?と思ってしまった。

 

痴漢や万引き犯の意外な「実態」 『万引き依存症』『男が痴漢になる理由』斉藤章佳氏インタビュー WEDGE Infinity(ウェッジ)

 

――痴漢などの性犯罪について、アダルトコンテンツの影響を指摘する声を耳にすることもありますが、患者さんたちを見ていてその影響はどうでしょうか?

斉藤:痴漢にしても、盗撮にしてもアダルトコンテンツに影響されて始めてしまった人は全体の1割程度しかいません。ただ、問題行動を繰り返すなかで、そうしたコンテンツが本人の認知の歪みを強化する要因や再発時の引き金には確実になっています。

 

たしかに「無関係だ」とは言っていないけれども、これを持ち出して「温泉むすめみたいな萌え絵と、夜這い設定は性犯罪の原因になる!」みたいに言うのは無理があると思う。

 

 

性善説から来るのかもしれない

萌え絵やアダルトビデオがなければ性犯罪が起こらないと考えている人は、ある意味性善説的な考え方なのでしょう。

だって、それがなければ犯罪行為をしようと誘発されない、って言っているんだから。

 

私は逆で、性犯罪を起こすようなヤベー奴っていうのは、たとえ萌え絵やアダルトビデオがこの世に存在しなかったとしても、何か別のきっかけでも犯罪者になりうると思うのです。

だって、現実とフィクションの区別がつかないヤベー奴なんでしょ?

「これをやったら捕まるな」とか「相手が嫌がるかな」とか、理解できない時点でヤベー奴じゃん。

というと、痴漢モノのAVで被害者女性が悦んでいるのを真に受けることもあるだろとか言われそうだけど、そういう風に考えちゃう時点でヤベー奴なんですよ。

 

萌え絵やアダルトビデオが問題だ、それらがあるから性犯罪が起こるという考え方にはならなくて、むしろ無くても一定の確率で犯罪者は存在すると思っている。

私はそんな「救いようのない世界」を見ているのだ。

 

 

因果関係を考えることに意味はあるのか

人は何か起こったとき、その理由と原因を考えて、「何をしたら防げたのか?」を考える。

そうやって考えていくと、時には、被害者に落ち度があったとか、被害者がこうしたら防げたのではとか、そういう話になってしまうこともある。

 

でも、その議論もあまり意味がないと思っていて。

「たまたまヤベー奴に遭ってしまった」で、それ以上でもそれ以下でもないことだって多いのではないか?

そこを、「こうしたら防げた」とか、「ここの判断をミスった」とか、被害者のミスみたくいうのは変な話だと思う。

 

 

本当に「それ」が問題なのか?

話は戻って。

だから「萌え絵が性犯罪の原因だ!だからこれをなくせば性犯罪はなくなる!(極論)」と言っているのを見ると、本当にそうなのか?と思ってしまう。

 

むしろ、そうやって原因を「萌え絵」「アダルトコンテンツ」に押し付けることで、本当に考えなければいけないことから目を背けてしまっているのではないだろうか?

 

人間は何かのバグで、一歩間違えれば犯罪者になってしまう「仕様」であり、その上でそれを防止するために何をすべきか考えなければいけないのではないか?

そしてそれは、アダルトコンテンツをなくすではなく、おそらく「社会」を何とかするという話になると思う。

貧困・孤独・精神疾患・・・そういう犯罪者になりうる可能性が「普通の人」よりも多いと思われる状態の人を、いかに見つけて対処していくか、そういう仕組みをいかにして作るか。

 

私は今の、アニメやイラストの性的描写を排除しようと躍起になるフェミニストを見ていると、「その方向で本当に良くなるのか?」と考えてしまうのです。

 

 

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