こんにちは、ドクダミ淑子です。
祖母が亡くなったという話を書きました。
葬儀を行うことになったので、忌引き休暇を取りました。
親戚同士で集まる機会って「葬」ばかりになる
私の兄弟やイトコ達、つまり孫一同が集合。
もちろん祖母の子供達、兄弟達、甥姪などなども集まり、久しぶりに親戚と顔を合わせる機会になりました。
昔はお正月にお互いの家に行ったりもしていたけど、年を取っておもてなしがしんどくなったり、誰かが入院したり施設に入ったりで自然とそういう「親戚の集まり」みたいなのがなくなってしまったな・・・
まぁそんなもんだろうと思いながら、お茶出しをしたり近況報告をしたりした。
冠婚葬祭の「婚」は大体終わってしまったので、これからは「葬」で集まる機会が増えるのだろうな・・・
やり手の葬祭ディレクター
そんなことを考えていたら、葬祭ディレクターの方がやってきました。
私は、仕事柄、職業とその適性みたいなのに興味がある。
葬儀屋としての仕事がデキる人って、どんな人なんだろう?
地元の葬儀屋を独立したというその人は、見た目はサーファーかギャル男かなっていう、50代くらいの男性でした。
・・・が、様子を見ていると「これは売れるな」と思ってしまった。
母の実家付近のご近所情報が全て頭の中に入っている。
「☓☓さんが・・・」
「奥様が若くして亡くなられてねぇ・・・娘さんは〇〇県へ行ってしまいましたが、時々帰って来られて」
「母は△△さんと□□さんと旅行に行ったりもしていて・・・」
「私も△△さんにはお世話になりまして。□□さんは葬儀の時に車椅子でいらっしゃってましたね」
シームレスな感じでご近所噂話に追いついている様子に、これが売れる葬儀屋か・・・と感心してしまった。
感情のゆれが激しい1日
葬儀というのは忙しい。
親戚と近況報告をしたりとワイワイ盛り上がったかと思うと、棺や遺影を前に御経をあげている間に故人のことを考えたり、それが終わるとまた出棺の準備で待機時間、お別れの前にお花をあげたりして、火葬場に連れていき最後の挨拶・・・そしてまた待機時間、お骨を上げたら今度は飲酒。
泣いて、笑って、また泣いて・・・の繰り返しで感情のゆれが激しい。
私は、色々なタイミングでワーッと子どものように泣いてしまった。
棺にお花や食べ物(祖母は食いしん坊だった)を入れている時に、皆顔を触っていたけど、私は触れなかった。
ひんやりと冷たい遺体に触れたらもっと泣いてしまいそうだったから。
そして火葬場を後にしてまた待機時間に戻る。
私はトイレで涙と鼻水を拭いた。
鼻水がとんでもないことになっていたので、マスクをしていてよかったなぁとどうでもいいことを考えたりした。
葬儀屋の適性や式場で出るお菓子などのどうでもいいことを考えたり、故人や久しぶりの親戚との思い出を記憶の書庫から引っ張り出したりと、脳がとにかく忙しい。
座ってばかりなのにどっと疲れるのは、きっと色々と脳みそが動いているからなのだろう。
また一つ、大人になってしまった
子供のようにビービーと泣いたお葬式が終わって、なんだか自分がまた一つ、大人になってしまったなぁと思った。
私のことを「よっちゃん(仮)」と呼んでくれていつまでも「可愛い子」扱いをしてくれる人が一人減り、もうすぐ40歳になるような人間がまるで子供のように泣いても「淑子ちゃんは特別だったわよね」と許されるような空間が終わり・・・もう多分私はこうやって人前で泣くことはないのだろうな・・・と思った。
40歳手前にして、なんだか自分が年を取ったことをものすごく実感した(遅すぎる)。
家族から守られる存在から、家族を守っていく存在に。
成人式なんかよりもずっと、「もう大人なんだな」を感じた1日だった(めちゃくちゃ泣いたけど)。
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