こんにちは、ドクダミ淑子です。
最近、「月曜日のたわわ」についての問題が話題になっています。
私は、自称フェミニストの方々はなぜ映画業界の性暴力問題について触れないのだろうか?ということが気になってしまうのですが、「一部の男性の起こした凶悪事件よりも、男性全体に関係がありそうな話が優先」なのかもしれないな・・・なんて予想しています。
質ではなく、量の問題なのでしょうか。
そのくせ、岡村隆史氏の失言については、「#岡村学べ」みたいなタグを付けてNHKに抗議したり、「フェミサイド」などの造語を拡散させたり・・・と、彼女ら(彼ら)の騒ぐ基準がよくわかりません。
・・・と、私は「わからんなぁ」と思ってしまい、「まぁ、どうでもいいや」と流してしまいそうになるのですが、その「わからんなぁ」「どうでもいいや」と思うことが、もしかしたら他の人が抱く感情や思考と違うのかもしれないなぁ・・・と最近思い始めました。
萌え絵に感じる不快感の種
私の基本的な考えは、このブログを書いたときから変わりません。
「萌え絵」のせいで犯罪が起こるのか?というと、そこはあまり関係がないと思う。
むしろそんなものが無くても、犯罪者は出てくると思っている。
その件で以前は、「いやいや萌え絵は犯罪に関係していますよ。この記事によるとこうです」とコメントと記事リンクをいただいたのですが、そこはいまだに納得できていない。
・・・のですが、世間一般の人が感じているの不快感って、「そこ(萌え絵を見ると犯罪者になる可能性がある)」ではないのかもしれない、と思い始めたのです。
そうではなくて、「女性の性的な面を誇張された絵を見ると、それを見てニヤニヤしている男性が存在することが想起され、不快感が生まれる」のではないか、と。
私たち女性は、多かれ少なかれ、大なり小なり、男性からの「好奇の目」「セクハラに感じる不快な言葉」を特に若い頃はかけられたり、時には痴漢や性犯罪などに遭ってしまった経験がある。
むしろ、それがゼロですって人の方が珍しいかもしれない。
そんな中、男性が思い描く「理想の(性的な)女性」が多くの人の目に触れる場所に上がると、過去の記憶から「そういう絵を見てニヤニヤする男性」が想像されてしまうのではないだろうか。
「私たちは過去みんな女子高生だった。あの時は不快に思っても言えなかった。だから今発言する」という内容で、月曜日のたわわ広告に抗議している女性を見て、そう思い始めました。
「目に見えていない存在を想像して不快になる」はキリがない
その気持ちはわかるんだけど、そんなことを考え出したらキリがないよね・・・とやっぱり私は思ってしまう。
だって、涼しい顔した目の前の男性が、昨夜はとんでもなく激しいセックスしたかもしれないし、もしかしたらSMプレイみたいな趣味があるかもしれないし、エロマンガ片手にオナニーしているかもしれないし・・・なんて考え始めたら、生きていられないんですわ。
ごく稀に「子供連れで歩く家族を見ると、セックスの結果この子が産まれましたって見せびらかしているように感じる」といった類の言葉を見かけるけど、そんなことを考え出したら、生きていけなくない?と思う。
それで、その不快感をこじらせて「セックスして気持ちいい思いして子供作ったんだから自己責任」とか言い出すの、大丈夫か?と思ってしまう。
・・・のと同じように感じるんですわ、萌え絵の先を想像して怒る人を。
子どもへの教育を考える時
こういうことを書くと、「あなたのお子さんが被害に遭わないといいですね」とか言いながら、何がなんでもエロの露出を封じようとする人が出てくるのですが、私は、「何をどうしても性の問題は無くならない」という前提で、子どもには教育していこうと思っている。
不快な発言・不快な言動は、出てきた時点でその都度叩いて無くしていくべきだけど、「不快なことをしそうな予備軍」を探したり想像して不快になるのは、また別の問題なんじゃないかと思う。
そんなことを書いていたら、件の広告がありました。
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