こんにちは、ドクダミ淑子です。
定期的にTwitterで流れてくる、仕事が大変か家事育児が大変か論争。
私は、それを見ながら、いつも思うのです。
「そんなの、人によるじゃん」
「人による、以上!」じゃない?
まず、その人が仕事が好きなのか、はたまた家事や育児が好きなのか、得意なのか苦手なのか・・・によって、大変か/楽かどうかは変わってきます。
また、本人の志向だけではなく、その人のいる家庭の状況、パートナーとの家事分担や収入や仕事での拘束時間などなどによっても変わってきますよね。
仮に本人が仕事が好きでも、家庭環境的に仕事するのはしんどい状況だったりする場合もあるし、育児が好きでも超絶わんぱくな子に手を焼いている場合だってある。
一概に、「仕事の方が楽ですね、皆そうです」とは言えない問題なのです。
それなのに・・・
どうして人は比べたがる?
みんな、『世界に一つだけの花』とか大好きだったじゃん!
「それなのに僕ら人間はどうしてこうも比べたがる?」ですよ。
なんで仕事と家事や育児に優劣をつけたがるのさ?
「生きていくためにすること」ってジャンルだけど、そこには上も下もなくない?って思ってしまう。
そもそも、比べてどうするのさ?って思うんだけど・・・
「お前は楽をしている」と言いたいのかね?
そう、私がこの論争でイライラするのは、「比べてどうするのさ?」の答えに、「比べて『私は大変だ、お前は楽をしている』っていうのが透けて見えちゃうところなんですよね。
決まって出てくるのが、「専業主婦は楽をしている」「子育てに専念なんて簡単」「仕事は命の危険がないからそっちの方が楽」なんて返答なんですよね。
なんだよ、結局比べてどっちが大変かを判定して、「私は大変な思いをしている!」って言いたいだけじゃないか・・・ってげんなりしてしまう。
1人の「しんどい気持ち」を増幅させる、ネットの渦
きっかけは、たった1人の「私は仕事をしつつ家事も育児もしているのに、パートナーは平日は仕事だけ。アンバランスでつらい」みたいな、あるご家庭のケースのつぶやきだったりするんですよね。
感情のはけ口としてネットを使うのは、何の問題もないと思うし、むしろどんどん使ったらいいと思う。
・・・んだけれども、そこに「つらい合戦をしたい人」「専業主婦をディスりたい人」「家事に非協力的なパートナーにイライラしている人」みたいに、色々な「個」の事情がある人がわらわらと集まってきて、どんどん主語が大きくなっていくケースがあって。
時には、「フェミニスト」だの「女性差別を許さない」だの、なんだか大きな使命感を持ちながら、大きなお世話な活動をされている方々の目に留まり、さらに主語が大きくなり、気付いたら「男はクソ」「女はクソ」みたいな、バカでかいくくりで特定の層を蔑むようになっていることがある。
いやいや、もともとそんな話でしたっけ?ただの1人の個人的なつぶやきでしょ?それを社会問題みたいに扱いだして・・・どうした?、ってなる。
SNSって、こんなに殺伐としたところだっけ?
「ほかてら」とか声かけあっていた時代に戻りたいよう・・・
自分が幸せなら、それでいい
こういう問題を見ていると、みんなが「自分の幸せ」だけを追求すれば、もっと心地よい世界になるのではないか?と思う。
なぜか、「誰かと比べた時に自分は幸せか?」とか、「日本中が幸せになるためにはすべての差別を撤廃すべき」とか、「誰かが幸せなのは私の幸せを搾取しているからだ」とか、「私が幸せになるためには、この人達を滅ぼさないといけない」とか、そういう方向に、色々と余計なことを考えてしまうから、結果的に「自分の幸せ」があまり満たされないのではないか?なんて考えてしまう。
誰かと関わるということは、相手の考えだってあることだから、そう簡単に自分の思う通りに行かないんだもの。
世界一幸せな国って言われていたブータンも、他国の状況を知り、他国を意識したら幸福度が下がっちゃったっていう話だってあるし。
ブータン「世界一幸せな国」の幸福度ランキング急落 背景に何が?(マネーポストWEB) - Yahoo!ニュース
「かつてブータンの幸福度が高かったのは、情報鎖国によって他国の情報が入ってこなかったからでしょう。情報が流入し、他国と比較できるようになったことで、隣の芝生が青く見えるようになり、順位が大きく下がったのです」
まぁ、「人と比べずに自分が幸せかどうかだけを考える」っていう、相対評価じゃなくて絶対評価って、難しいのはよくわかるんだけど。
こうも、「どっちが正しい/間違っている」「どっちが大変/楽」とか、そういう論争を見ると、どうにかして絶対評価の世界で生きないと、このSNS社会ではしんどくなるなぁ・・・と思ってしまうのです。
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