こんにちは、ドクダミ淑子です。
先日書いたブログが、色々な方に拡散されました。
Twitterのリツイート、引用リツイート、URL貼り付けのツイート、はてなブックマークからのホッテントリ入り、からのスマートニュース掲載、ついでに某女性向け匿名掲示板で紹介していただき、仕上げにはてなブログランキング入り・・・と、みるみるうちに広がっていきました。
このスピード感は、何度か経験していますが、ちょっと怖いなぁと毎回思っています。
(なので、ブワーっと記事が拡散されている時は、少しSNSから離れるように意識しています。その結果、リプライや引用RTにリアクションし損ねてしまうことも・・・)
本当はもっとハッピーなネタでバズりたいと常々思っていますが、どんな内容であろうとも、書いたものを沢山の方に見ていただけるのは嬉しいものです。
ありがとうございます。
誰かの言葉に一喜一憂しない
こうやって拡散されると、「常連さん」以外の目に留まると、色々な批判的なコメントや、「そうじゃないんだけどなぁ・・・」と思うようなコメントも届きます。
ざっと目を通すんだけれども、最終的には「まぁ、私のことを知らない人にああだこうだ言われても、別にどうでもいいな」と思ってしまう。
必死に否定する気も起こらず、「まぁそういう見方もあるよね」と納得してしまう。
多分、それはどこかの匿名掲示板で自分のネタが上がったとしてもそう思うし、自分から見に行くこともないと思う。
ましてや、「訴えてやる!」なんて絶対にならない。
そういう意味で、私はきっと「強い」のだろう。
他人にどうこう言われても、あまり気にしない。
批判されても、別に自分の人格を否定されているとか、そんな風に思わない。
もしかしたら、それは「強い」じゃなくてただの「無神経」なのかもしれないけど。
強い人は、他人に厳しい人?
「強い」というと、なぜか「他人に厳しい」というイメージまで一緒に持たれがちなところがある気がします。
弱い=他人に優しい、強い=他人に厳しい・・・みたいな流れで。
でも、自分のメンタルが強いか弱いかと、他人に優しいか厳しいかは、特に関連がないと思うのです。
メンタル弱めでいて、自分よりも弱い立場の人にはめちゃくちゃ当たりが強い人や自分と違う考えを受け入れられない人だっているし、メンタルが強い人だけれども、弱い立場や自分と考え方が違う人を受け入れる人だっている。
私がどうだかはわからないというか、それは他人が評価することだから何とも言えないけれども、自分では「メンタル強めで他人に優しく寛容な人間」でありたいと思っている。
100本の花、数本のナイフ
さてさてそんな「誰からどう言われてもあまり気にしない」という私ですが、Twitterで、こんな言葉を見かけました。
心ないコメントはスルーすればというけれど、そんなに簡単なものじゃない。好意的な100人が花を手渡してくれる中で、通りすがりの数人がナイフでひと突きしていくようなものだもの。
— 村山由佳(時々もみじ) (@yukamurayama710) January 12, 2022
誰かを批判するつもりなら、せめて過去ツイートを遡ってどういう人か知るくらいの努力はしようよ。最低限の礼儀だぜ。
この手の、「沢山の人が好意的な言葉をくれても、数人の人から否定的な言葉を投げられるとスルー出来ない」みたいな文って、時々流れてくるんだけれども、正直なところ、私にはあまり理解できない。
沢山の人が良く言ってくれるなら、数人の人に悪く言われても別に気にならないじゃん・・・と思ってしまうのだ。
どうして、そういう風に思わない人が一定数いるのだろうか?と考えると、「この言葉に共感する人の方が、褒められることに喜びを強く感じるのではないか?」「褒められることが当たり前で、貶されることが有り得ないと思っている人がいるのではないか?」なんて仮説が出てきた。
そう考えると、私は否定的なコメントを見てもどうにも思わないと同時に、肯定的なコメントを見ても、そこまで強く心を動かされることがないのかもしれない。
もちろん、褒めていただけるのはとても有難いと思っているけれども、褒め言葉に合わせて自分のスタイルを変えるとかブログの方向性を変えるとか、そういうことは一切考えていないし、そこまで「褒め」を求めて書いているわけではない。
もしも、私が自分への褒め言葉に強く反応する人間だとしたら、きっとこのブログは「炎上ネタを追いかける、いわゆるトレンドブログ」みたいになっているだろう。
だってその方が、読者の方の反応も多いし、話題になるんだもの。
でも、そうしないのは、褒められても貶されても私は私の書きたいネタを書くと決めているから。
時々「○○を書いてください」みたいなメールが来たりするけれども、そういうのは自分が興味を持てない限り、お断りするようにしている。
褒められることが当たり前or貶されることが当たり前
「褒められることが当たり前で、貶されることが有り得ないと思っているのではないか?」ということに関して。
私のベースは、「貶されることが当たり前」なんですよね。
それは私がわりと批判的な人間だからかもしれないけれども、私の中では、貶されることが当たり前・褒められるのはレアケースという認識なのだ。
むしろ、見ず知らずの人に手放しで褒められることの方が、違和感を感じてしまう。
・・・なのだけれども、きっとこれが真逆の人がいるのだろう。
褒められるのが当たり前、見ず知らずの人に突然批判される方に違和感を感じてしまう、みたいな人が。
だから、100本の花よりも数本のナイフの方が気になってしまうし、そっちの傷の方が大きくなってしまうのだろう。
広い世界に出れば出るほど
「褒め」と「貶し」について、あれこれ考えてみたのだけれども、お仲間だけ・ファンだけでワイワイ褒め合っているだけの狭い世界から広い世界に出れば出るほど、突然/自分のことをよく知らない人から/パッと目についた文章を読んだだけで/否定的なコメントや批判をされる・・・なんてケースが増えてくると思う。
そこで、「私はそういうことを言っていない!」と一生懸命弁解をするのは、無駄だと思う。
そういう人達はイナゴの大群のように、話題になっているところにバァーっと飛んでいき、話題が落ち着くとまたバァーっと去っていくのだから。
だから私は「気にすんな!」と思うんだけれども・・・きっと気になって仕方がない人もいるんだろうな、ということは分かった。
批判と誹謗中傷のあいだ
私は、先ほど書いたようにメンタル強めで他人には優しくありたいんだけれども、その中で難しいのは、批判と悪口と誹謗中傷が一緒くたに「ナイフ」と見なされる最近の風潮の中で発言することです。
貶され慣れていない人達からすれば、私が批判や批評だろうと思いながら何かを書いても、「人格否定ですか?」「誹謗中傷だ!」と思われてしまうのかもしれない。
そしてそれは、「褒め」しか求めていない人達を傷つけているのかもしれない。
・・・なんて考えると、何も書けなくなるから、結局最終的には自分の良心や物差しに従って、エイヤと書いてしまう。
そう考えると、私は自分にも他人にも厳しい人間なのかもしれない。
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