こんにちは、ドクダミ淑子です。
先日、クライアントの元へ訪問し、ああだこうだと話をしていました。
労働人口が減っている中、どこも人手不足ではあります。
その会社も例外ではなく、たくさん採用しているものの入社と離職の数がプラマイゼロくらいで、いつも困っています。
その時に、こんなセリフが出てきたんですよね。
「玉ねぎの皮を剥くような果てしなさなんですよね」と。
そこで、はたと考えこんでしまいました。
「玉ねぎの皮は比較的すぐに剥き終えるんじゃ・・・」
玉ねぎの皮、薄いのは最初だけじゃない?
玉ねぎ。
確かに、層になっていて同じような状態が続いているんだけれども、でも「果てしない」って程じゃないと思うんですよね。
薄い皮なのは最初だけで、あとは果肉ならぬ「玉ねぎ肉」みたいな、水分がある可食部になるし、それは10回くらい剥いたらなくなるんじゃないか?と思う。
それは、スーパーでそんな形に加工してくれているからで、実際はもっと果てしなくあの茶色の皮が続くのかもしれないけれども。
料理をするかどうか問題なのか?
そう言われてみて考えたけど、昔は「玉ねぎの皮を剥く」っていうと果てしないイメージがあったなぁと思う。
今は実際の玉ねぎの断面を見ているから、「果てしないってほどでもないよね?」とツッコミたくなってしまう。
それは私の家事レベルが成長したってことなのかもしれないな。
キャベツの葉をはがす果てしなさ
そんな私は、最近、「キャベツの葉をはがす果てしなさ」の方を感じている。
夫がキャベツ嫌いだから、買っちゃうと私と子どもで消費するしかない。
子どもは子どもの適量を食べさせるようにしているから(以前モリモリ食べさせたら母子ともにお腹が緩くなった)、結果的に私がたくさん食べなければいけないのだ。
千切りにし、野菜炒めにし、スープに味噌汁にとどんどん入れていくけれども、一向になくなる気配がない。
最近は無印の野菜の新鮮さを保つポリ袋に入れているから結構持つんだけど、それでも終盤になると少し元気がなくなってくる。
玉ねぎ(夫も食べられる)よりも、こっちの方が厄介だわ・・・
玉ねぎの皮の話を思い出しながらキャベツの葉をちぎって、「キャベツの葉をはがす果てしなさ」の方が表現としては適切だよなぁ・・・なんてことを思ったのでした。
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