こんにちは、ドクダミ淑子です。
今、ふと思い立って、世界史と日本史の教科書を読み直しています。
こんな情勢だから、改めて世界史を学びたいなーと思って買ってみた。ついでに日本史も。
— ドクダミ淑子 (@dokudamiyoshiko) March 13, 2022
山川なのは高校のなごり。 pic.twitter.com/Cq98INTp0K
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自分の中で「ウクライナってどの辺だっけ?」「ロシア帝国がソビエト連邦になって・・・」と、歴史の授業で学んだ(であろう)ことが曖昧になってきていて、ニュースを見ていても疑問ばかり浮かんでくるようになってきて。
その疑問を「昔習ったけど、もう忘れちゃったよね~」で終わらせないようにしよう!と思い、もう一度世界史の全体像みたいなところをインプットし直そうと思って、買ってみたのです。
といっても、ちびちびと読んでいて、今まだ7世紀くらいなんだけど・・・
たった数行で100年くらいが過ぎる
高校生・大学生くらいの頃に勉強していた(大学受験科目に世界史を選択し、地理・歴史の教員免許を取得した)頃には感じなかったんだけれども、教科書って「網羅」が目的だから、色々なことがぎゅっと数行でまとめられ、その「ぎゅっ」がずっと続いている、みたいな感じなんですよね。
たとえば、最近アニメ第4期が放映中の『キングダム』で出てくる、秦の始皇帝が中華統一しましたって話も、2~3行(+始皇帝の人となりについてのコラム)くらいで終わっちゃう。
その中には、秦に敗れた他の国の人の話も、秦国軍の大将として誰が、どんな活躍をしたのか?みたいな話はない。
そんなことを語り出したら教科書が辞典サイズになっちゃうから、当たり前なんだけど、ちょっと「ああ、もっと詳しく知りたい!」と思ってしまう。
たった数行で100年くらいが過ぎ、1ページめくればそこはまた違う世界(イスラームの章からヨーロッパの章へ)になったりして、なんだか目まぐるしい。
・・・のが、高校生の時も苦手だったな、そういえば。
半径3000kmの野望
読みながら、疑問に思ってきたのが、当時の民衆は、「自分の国」というものをどう認識していたのだろう?ってこと。
たとえば、アレクサンドロスの東方遠征とか、チンギス・ハンのモンゴル帝国とか、色々なタイミングで広大な土地が「遠征」により1つの国家の支配下におさまったり、短期間で支配者がコロコロ変わり、それに伴って文化や政治制度が変わったりするんだけれども、民衆はそれをどのように知り、どのように自分の中で折り合いを付けていたんだろう・・・と疑問になった。
「ここからここまで、俺様の国ィ~!」っていう人はたくさんいるんだけれども、果たしてそれは民衆レベルまで認識されていたのだろうか?・・・と思うくらい、簡単に「討ち」、「支配」し、「征服」されていくのだ。
歴史の教科書での一言「支配下におく」に、それに関わる一般市民はどのような扱いを受けていたのだろうか?なんてことを考えるようになった。
コミュニティ単位での教育が、今よりも濃かったのかもしれない
今の世界だとテレビやネットがあるから、「今この国から侵略されています」っていうのがわかりやすいけれども、テレビもネットも新聞もない時代には、どうやって広大な土地の中で「国」という意識を醸成し、どの国から侵略されているなんて情報を得ていたのだろう?・・・なんてことを歴史の教科書を読みながら考えていた。
色々と考えてみたけれども、きっと今よりももっと小さなコミュニティ単位での情報伝達・情報共有みたいなのがさかんだったのだろう、という仮説に辿り着いた。
家族の中で教育する、集落や村・町単位で情報を共有する、というのが今よりも濃くて、そうやって情報を得ないと生きていけないような世界だったのかもしれない。
そういう世界が紀元前から続いていたと考えると、今のコミュニティに属さなくてもネットがあれば情報収集が出来て、生きていける時代って、ごくごく最近の生活様式なんだろうな・・・と思う。
悠久の歴史に思いを馳せるのも
そうやって、昔の人はどうしていたんだろう?と考えながら、ぎゅっとした一行をじっくり読んでいるのも、また楽しいなと思う。
ただ、やっぱりこの「ぎゅっ」は読んでいてしんどいことも確か。
世界史・日本史の全体観の学び直しは、今回だけにして(=今回でインプットして)、もう少しストーリー性のある史実を元にした小説なんかを読んでみようかな・・・なんて思うようになりました。
時間があれば、だけど・・・グハァッ(吐血)。
あと、教科書読む時のお供に、アレも欲しいです。
資料集。
文字だけじゃなくて、当時の美術品や遺跡、偉人の顔などを見ながら、想像を膨らませながら読みたいんだよな。
なんだかんだで、勉強するのは楽しいな。
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