こんにちは、ドクダミ淑子です。
はあちゅうさんのインスタグラムのポエムに、時々「オシャレが好き」みたいなテーマが出てきます。
内容はだいたい一緒で、「以前はこんな服は似合わないと勝手に決めつけていたけれども、そういう思い込みをやめて着てみたら云々」とか、「昔こういうことを誰かから言われたけれども、その呪いを取り払って云々」とか、「私はオシャレが好きだけれどもそこまで詳しいわけじゃないけれども、でもやっぱりオシャレが好きで云々」とか、とにかく「なんだかネガティブな気持ちがあったけれども、バリア的なものを取り払ったらポジティブになった」みたいなポエムが多いんですね。
直近のを引用しておきましょう。
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趣味を聞かれただけなのに
読書は好きだけど昔ほど読んでいないし、
服とかメイクも好きだけど、そんなに詳しくないし
趣味っていってもいいのかな…って
自分がその時間が好きかどうかではなく
人より詳しいか、得意か、ってものさしを
無意識に出している自分がいて。
でも、相手が
「私は映画も好きだし、服も好きだし、
買い物も好きだし、…
好きなこといっぱいあるんですよ~!」
ってさらっと答えてて…
別に詳しさや上手さではなくて
「好き」って気持ちだけで
趣味って堂々と答えればいいじゃん…
となりました。
好きだけで選ぶなら趣味たくさんある!☺️
買い物、メイク、服、家電、
読書、漫画、雑誌、韓国ドラマ、映画、
語学学習、SNS更新、恋愛相談、日記、
コンビニ商品研究…
使う言葉の自己流定義一つで、
人生が広くも狭くもなるな、と
思ったのでメモです✍️
私はこの構文を見るたびに思うのです。
「うだうだ言ってないで、勝手にやっとけ!」と。
なぜ言い訳ばかりするのか?
だって、そう思いません?
「オシャレが好きだけれども、センスがなくて、似合わないって言われるかもしれないけれども、でも自分の好きって気持ちを大事にしたいし、洋服が好きだしぃ・・・」とかうだうだ言っていないで、好きなら好きでそれを貫けばいいじゃないか。
なのに、何度も何度も、なぜ「だらだらと言い訳→でも好き!」みたいなことを言い続けるのか?
「オシャレが好きな自分が好き」なんだよな
最初に、「オシャレが好き」なんじゃなくて、「オシャレが好きな自分が好き」なんだろうな、ということが思い浮かびました。
実際に彼女のファッションについてや、本日のコーディネートについてなどのポエムを読んでみても、その服がどのくらい可愛いかという話よりも、その服について「自分が」どう思うかとか、着たら「自分が」どんな気分になるかとか、「自分が」どう変わったかとか、「自分の」世界がどう広がったとか・・・とにかく、主語が「自分」なんですね。
ファッション系インスタグラマーやブロガーの投稿を見ていると、あんまりそういう「自分が!自分が!」っていうのを感じないから、きっとここが、はあちゅうさんならではなんだろうなと思った。
「ダサい」と言わないで欲しいの?
もう1つ。
こうやって、「私は、特別センスがあるわけじゃないけれども、オシャレが好きでぇ~」と何度も何度も言うのには、こういう気持ちも隠れているんじゃないか?と思いました。
「センスがない、ダサいって言わないで欲しい」という気持ち。
私は、「自分が好きなら、どんな服でも堂々と着ていればいいじゃん」と心から思っていて、実際に時々ヘンテコな柄物を着たり突然キャラクターTシャツ(グラニフのもの)を着たりしているのですが、それに対して、「別に特別センスがあるわけじゃないけれども・・・オシャレが好きでぇ~」なんて言いながら歩かないんですよね。
だから、「センスがあるわけじゃないけれども、オシャレが好きでぇ~」というのを見ると、その続きに「だから、ダサいって言わないで!私のオシャレが好きって気持ちを大切にして黙っていて!できれば褒めて!」っていうメッセージを勝手に感じ取ってしまう。
いや、どう見てもダサいもんはダサいんだけれども、それを好きで着ているなら堂々としていればいいのになぁ・・・と思う。
要するに、自信がないんでしょうね。
自信がないけれども、それを指摘されたりアドバイスされたくないから、「何も言うな!」とガードしながらパンチを繰り出してきている感じがする。
そのポエムに書いてある、「自分が好きなら周りの声は気にしない」というのを、いい加減実践すればいいのになぁと思う。
軸が「自分」だから、伸びないんじゃないの?
はあちゅうさんを見ていて、ある「得意分野」を伸ばし、さらにそれを「仕事」にする時のポイントって、これじゃないかな?と思ったことがあります。
それは、「自分」からいかに離れるか?ということ。
趣味とか、好きなことなら、別に「自分が好き」って気持ちだけで良いと思うんですよ。
ただ、それを仕事にするとなると、「自分が好き」っていう気持ちだけではなく、もっと広い視点で見なければいけないのではないだろうか?
たとえば商品開発なら、ターゲット層がどういう属性で、何を考えていて、どんな悩みがあって、どういう好みがあって、また今のトレンドはどうで、価格帯はどのくらいで、競合となる商品はこういうものがあって・・・と、仕事として、ビジネスとして、何かを極めようとするほど、「自分がどう思うか」ということを切り離して考えなければいけない。
ただ、はあちゅうさんはそこで「自分を仕事にする」とか「自分の好きって気持ちを大事に」とか、とにかく「自分自分~」って言っちゃうんですよね。
だから、なんだか中途半端に終わってしまう。
そして、「雛祭りのプレゼントにオススメ」みたいにテキトーな理由をこじつけて売る、ベビー用なのかデリケートゾーン用なのか、どっちにも振りきれない5,000円のソープをプロデュースしてしまう。
「自分」から目を離した方がいいのではないか?
少し前にTwitterで見て、「なるほど」と思ったことがあります。
メンタルのお医者さんによると、落ち込みやすい人は『自分のこと』を考えてる時間が、とにかく長いんだとか。幼少期や学生時代、社会人のツラい過去を辿っては、ネガティヴに押し潰される。落ち込みたくないときには、『大事な他の人のこと』とか『楽しみとか好きなこと』とか考えるといいらしいですよ
— まいける®︎ (@ma_ikeru68) February 17, 2022
ああ、もしかしたらこれもあるかもしれないな・・・と思った。
洋服を着る時も、美味しいものを食べる時も、本やマンガを読んだり映画やドラマを見たりする時も、常に「自分」のことを考えているっていう。
ここまでほぼ全部、今までのインスタポエムを見ての単なる推測だから、本当のところはわからないけれども、私ははあちゅうさんの文章を読めば読むほど、本当に「自分」「私」のことを考えているんだなと思う。
たとえば、こういうストーリーズも。
「子育てがつらい」を分解すると、全部自分が息子に振り回されることがつらいになるっていう話なのですが・・・
いやいや、なんかこういうのって、「イヤイヤ期の子供との意思疎通が出来なくてしんどい」とか、「子供の偏食が心配」とか、そういう子供が関係しているつらさって皆無なんですかね?
ここまで、「自分自分自分」って考えられるのも、ある意味才能なのか・・・?
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