こんにちは、ドクダミ淑子です。
ただいま、保活(保育園探し)の真っ最中。
探して、見学会の申し込みして行って、比較して、自分の中での志望順位を決めて・・・ってまじで就活と一緒!!
私の住んでいるところは申請が年内なので、まだまだ時間はあるものの、毎日見学だと子どもに負担だし・・・っていうか私が疲れるし、ほどほどにしつつ、でも色々見たいなぁと、ポチポチと申し込みをしています。
そんな中、説明を聞いて「むむ?」と思うことがありました。
キリスト系の保育園
そこは、周辺では珍しい、キリスト教系の保育園だそうです。
園長先生いわく、「聖書を読んだり、公園に行く前にお祈りをしたりといった活動や、たとえば花壇のお花を見たときに『綺麗だね、神様がこのお花を作ってくれたんだね』などと伝え、神様へ感謝する気持ちを育てます」とのこと。
私は、これを聞いて考えてしまったのです。
「花が綺麗なのは神様のおかげなのか?」と。
感謝するのは神様に、なの?
私はひねくれ者だからなのでしょうか、もし花壇の花だったら、綺麗なのは神様が作りたもうたからではなくて、きっと品種改良した人がいたからなのでは?とか、植えて毎日お世話している人がいるからなのでは?とか考えてしまうのです。
感謝の気持ちは大切だけど、その感謝をする相手が「神」なのか?と思ってしまう。
花を作った(と思われる)神に感謝するよりも、それを育てている人のことを思った方がよくない?
THE・無神論者なのだろう
そんなことを考えたのですが、それはきっと私が今まで宗教関係との接点がなかったからなのでしょう。
全てを司る神がいて、神がコロナウイルスを作ったとか言ったら「はぁ・・・」だし、全てを司る某元大統領がいて、某元大統領がコロナウイルスの秘密を全部知っているとか言ったら「はぁ・・・?」なのだ。
なんというか、両方とも、受け入れがたい。
「全てを司る・・・」って言われた瞬間に、警戒してしまう。
「そんなゲームマスターみたいなのが、いるわけないじゃん!」と思ってしまうのです。
マスク不要論者の思考回路
話は少し変わりますが、コロナのあれこれで、反ワクチン派の人々の思考に触れるとき、これも疑問に思うことがあります。
なぜ、自分の都合のよいものを信じこんでしまうのだろうか?ということです。
たとえば、マスク不要論者。
あの手の人達がマスク不要にたどり着くプロセスって、私の見るかぎり最初が「マスク不便だな」なんですよ。
「マスク不便だな、つけたくないな」から、「じゃあ、マスクがいらない根拠を探そう」ってなって、「ほら、このデータによるとマスクいらないでしょ?」からの、「エビデンスは十分!マスクは不要!」って結論にたどり着くんですよ。
最初から、「マスクは不便だから、マスクが不要という結論を出そう」という流れで考えている。
普通は「本当にマスクは必要か?」から始まって必要派と不要派のデータを比べて・・・とした方がたどり着く答えは真実に近いと思うんだけど、そうしない。
反ワクチン派も同じくで、スタートが「ワクチンを打ちたくない」。
そして、そういう人は、「コロナ陰謀論」にはまったり、「自然免疫さえあればウイルスも癌も怖くない」みたいになったりする。
とにかくスタートが「反ワクチン」「マスク不要」だから、おかしなことになるんですよね。
全てのことに「理由」を求めたい
神様の話とコロナ陰謀論者の話は全然次元が違うのですが、私は全てのことに「理由」を求めたいんだなということに、改めて気づかされたのです。
なんでも「コロナが陰謀だから」ではなく、なんでも「神様のおかげ」でもない。
全てのことに、理由がある。
きっとそれが、私にとってのある意味「宗教」なのだろう。
子どもに「神様のおかげ」といわれたら
最初の保育園の話に戻って。
もしも、我が子がこのキリスト系の保育園に入って、「なんでもかんでも神様のおかげ」と言い出したらどうするか?
私はきっと、大人気なく、上に書いたようなことを話すだろう。
「違いますぅ、育てている人がいるから、あの場所にお花が咲いているんですぅ~」とか。
子どもは混乱するかもしれないけど、それが私の宗派なのだ。
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