こんにちは、ドクダミ淑子です。
少し前に、衆議院選挙がありましたね。
我が家の投票率は50%、夫に選挙へ行くことの重要性をプレゼンしましたが、頑なに拒否するので仕方なく置いていきました。
選挙へ行ってスラッスラと書けるあの紙に記入して、投票箱へスルンと投じて・・・なんとなく大人としての責任を果たした気になった私ですが、今回は育休中ということもあり選挙前によくテレビを見ていたからか、選挙について、投票について考える機会がありました。
「自分の一票では何も変わらない」の声
まずはこちら。
「自分が一票を入れたからと言って、何も変わらない(だから選挙に行かない)」と語る若者。
選挙に行かない理由として、こんな声を聞きますね。
聞きます、というか、よく聞く、めちゃくちゃ聞く。
まぁ、その気持ちはわかるんですよ。
何千万分の1だから、意味なくない?
じゃあ選挙なんて、行かなくてもよくない?
でも、あなたが仮に野党を支持して一票を投じたとして、与党に投じる誰かの一票と重さが違うかというと、そんなことはない。
両方とも「たった一票」なのです。
ただ、その「たった一票」が集まって多数派になるか、少数派になるかって話であって。
それなのに、なぜかそういう発言をする人は「自分の一票だけは、たった一票なんだ」みたいな感じで喋りますよね。
その「たった一票だから、行かなくても良い」の集合体が投票率の低さにも繋がっている。
だから、「たった一票」かもしれないけれども、されども一票なんですよね。
私が支持する党に投票しない人は、愚か?
さて、そんな「たった一票」たちが集まって結果が出たのですが・・・今度は結果に文句を言っている人達を見かけました。
その人達は野党支持で、左寄りの政党を支持する人が多い印象なのですが、だいたいこんな感じで文句を言っています。
- 自民党に投票する人は何も考えていない
- 公約を読んできちんと考えたら○○党に投票するはずだ
- 投票所が減ったから野党の得票率が減った
- 国民がジェンダー問題に関心がないなんて日本は終わっている
何なんだろう、この「私はきちんと考えて○○党に入れたが、自民党に入れる奴は何も考えていない」「私はジェンダー平等に関心があって、それは日本人が選挙において一番関心を持つべきことだ」みたいな、「私が正しくて、私の考えに従わない奴ばバカだ」みたいな感じは・・・
ちーがーうーだーろー!
違うだろーっ!
なぜ、こういう人は「私は正しい」「私と違う意見の人は間違っている」って簡単に判断してしまうのだろうか?
以前ブログにも書きましたが、「私は正しい」かというのは、どこまで行っても「わからない」のです。
誰もが「私は正しい」と思っているから。
たしかに、歴史的に「衆愚政治」というのはあって、国民の大多数が間違った政治を選んでしまうことだってある。
でも、それが正しかったかどうかを判断するのは、「その当時」ではなく、歴史として判断するしかないと思う。
だから、今このタイミングで「自民党が勝ったのは間違っていて、国民は愚かだった」と判断することはできないし、判断するあなたは何様なの?と思ってしまう。
そう、私は、「そういう人達」の「私は正しい!お前は間違っている!」っていう態度が、嫌なんだ。
男女平等はもちろん実現したいと思うけれども、「そういう人達」の「私が生きづらいのは、日本の社会のせいだ!」っていうのは、果たして100%そうなのか?と思ってしまう。
「認知のゆがみ」は簡単に起こる
「私が生きづらい、なぜだろう?・・・私が女だからだ」も「私が選ぶ政党が与党になるべきだ」も、すべて「私は正しい」という認知のゆがみから来ていると思います。
ただ、そういう状態で突っ走っている人って、「自分の認知がゆがんでいる」なんて思えないのです。
そしてそういう人には「その通りだ!」という一定数の、同志が寄ってくる。
だから、より一層「私の考えは正しい。賛同してくれる人もいるし」と、その考えは凝り固まってしまう。
その状態で同志の外に訴えかけ、あがいて、行動しても上手くいかないと、「私は正しいのに!?なぜだ!?おかしい!?」と思ってしまう。
でも、これって誰もが簡単に陥ってしまう罠なのかもしれない。
特に、現状に不満がある人であればあるほど。
外で戦うためには、客観的な視点も必要
何度も書いているけれども、本当に心がつらい時には、認知が歪んでいようとなんであろうと「私は悪くない」って自分をガードすることも大切だと思う。
ただ、それは「シェルター」的なもので、一歩外に出るためには、自分や自分の周りをもう少し客観的に見る視点が必要になると思う。
・・・「私は正しい」という人達って、自分目線だけで社会を斬りかかってくるから、私はちょっと引いてしまうのかもしれない。
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