こんにちは、ドクダミ淑子です。
若いころ、よく煮詰まっていました。
煮詰まる。
うまく言葉に出来ないモヤモヤが溜まりに溜まって、毒素のあるガスを出すからさらにパンパンになっているような状態。
人間関係だったり、仕事だったり、恋愛(と言ってもただの片思い)だったり、家庭の状況だったりが、全部上手く行かなくて空回りしている状態。
そんな時、私はよく「移動」していました。
歩いたり、自転車をこいだり、車に乗ったり、電車に乗ったり・・・
身体を動かしながら、または座りながら、移り変わる知らない景色を見ると、自然と気分は上を向いていきます。
溜まった毒ガスが、すうっと抜けるのを感じます。
「とりあえず、少し心が晴れた気がする。帰るか・・・」となったら、家に帰る準備を始めます。
煮詰まったら、旅に出ていた
今思い出すと、この「煮詰まる」を解消しようと、私は色々なところへ行きました。
どこか?というと正確には覚えていないけれども、とりあえず田んぼや山など、緑が多いところに行っていた気がする。
実家の所在地的になのか、気分的になのかはわからないけれども、海はあまりなかったな。
ただ、田舎の風景をぼけーっと見る・・・そんなことが多かった記憶があります。
夏休みになると、青春18切符でひたすらに電車に乗ったり、どこかのローカル線に乗って知らない場所に泊まりに行ったりしました。
今パッと思い出したのは、上越線と見延線と小海線と、JRじゃないけれど、わたらせ渓谷鉄道と小湊鉄道と関東鉄道(常総線)。
そうやって、煮詰まったら知らない場所に行き、なんとなく煮詰まったものが薄まって、帰ってくる・・・を繰り返していました。
たどり着いた先には
ある日の私も同じように、何で煮詰まったのかはわかりませんが、ふらりと電車に乗り、どこかの知らない駅で下りていました。
いつもの私よりも、煮詰まり度は高かったようで、妙な皆騒ぎと、妙に息がつまる感じがしていました。
そして田んぼ道を歩いては止まって、歩いては止まってを繰り返していたら、少しずつその苦しさが無くなっていき・・・そしてこう思ったのです。
「ああ、どこに行っても同じなんだよな」
そこが地元であろうと、知らない場所であろうと、絶景であろうと、行くのは「私」であり、私は私から逃げることはできない。
だったら、どこに行くこともなく、ただじっと、自分を見つめ直す作業をすればいいのではないだろうか。
それに気づいたその日から、「煮詰まる」も、「煮詰まるのを解消するために旅に出る」もなくなりました。
旅行は好きだけれども、風景や食事を楽しんだりするものになって、いわゆる「自分探し」みたいな旅はしなくなりました。
ハチクロと自分が重なった
ちょうど、『ハチミツとクローバー』の最後の方にも同じような話がありました。
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主人公の男の子は、煮詰まってママチャリでひたすら走っていき、そして最後に「自分」と向き合うというストーリーです。
私が気づいたのと、ハチクロでその描写を読んだのと、どちらが先だかわかりませんが、それを読んだ時に深く共感したものです。
あれは、大学生~20代の若さゆえのことだったのか、それとも私が少し頭がおかしくなっていたのか・・・は良くわかりません。
でも、そんな経験を通して、「自分」と向き合えたし、精神的にも強くなったと思うのです。
どこに行っても、私は私
どこに行っても、何をしていても、「自分」は自分だ。
そんなことを悟ったからか、今の私はどこにいてもあまり揺るぎません。
コロナ&子育てがあって、今はほとんど家の中or周辺500mくらいの範囲で生きているけれども、だからといって「自分がなくなる」なんて感覚にはならないな。
そして、もう1つ。
「煮詰まる」ことが無くなったのは、きっと上手く言語化できるようになったからだと思います。
私は今、何にモヤモヤしているのか、なぜ苦しくなっているのか・・・頭の中を整理して、言葉にしていくことで、それは「解決」に向かっていく。
そうやって、「言語化」がきちんとできるようになったならば、若い頃のあのなんとも言えない苦しみも、私の「糧」になったのでしょう、きっと。
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