ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

どうして「男女平等にしましょう」という正論が賛否両論になるのか?

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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

「男女平等」「ジェンダーフリー」って、どうしてこうも燃えやすくなってしまっているのだろう?と感じる今日この頃。

 

激しい言葉を発する人たちを見ていると、男性は女性を、女性は男性を、お互いを嫌悪し、罵り、ダメなところをあげつらい、自分の体験した理不尽を語ってお前も同じ苦しみを味わえと言い、過去にこういうことをした女(男)がいたからその話は男(女)は悪くないと言い・・・と、話は終わらない。

そして、そこに加勢または見当違いの意見や別の話題がぶち込まれて、さらに議論は白熱・・・っていうか、それ議論になっていなくない?ただの多数決になっていない?みたいな状態になっているのも見かける。

 

どうして、「男女平等な社会を作りましょう」が、こうもお互いの対立になってしまうのだろうか?

 

 

誰もが納得できるゴールのはずなのに 

この問題のゴールは、「男女その他ともに生きやすい社会を作りましょう」なんですよね。

男性も女性もその他の人も、バリバリ働きたい人は働いて、主婦(主夫)として家事や育児をメインに生きたい人は生きて、夢を追いかけたい人は追いかけて、家庭を築きたい人も一生独身で生きていたい人もその希望を叶えられて・・・皆が、性別に関係なく自分のしたいように生きていきましょう!って話なのです。

 

公平な社会、生きやすい社会・・・これに反対する人は、誰もいないはず。

そして、「あなたも私も、全員が生きやすい社会を作りましょう」なのに、なぜこうも対立が起こってしまうのだろうか?

 

 

「あなたの幸せは、私の不幸の上に立っている」

「みんなで幸せになりましょう」という話をする中で、こういう反対意見をよく見かけます。

 

「女性が生きやすい社会にするということは、男性が生きづらい社会になってしまう」

「育児をしている人を優遇すると、独身者の肩身が狭くなってしまう」

 

いやいやいや、みんなで幸せになりましょうって言っているのに、なぜそういう意見が出てくるのだろうか?と思ってしまう。

幸せの総量が決まっていて、その中で幸せの取り合いをしていると思っている人が結構いるのだろうか?

あなたが幸せになるということは、その分私が不幸になる・・・だから、あなたが幸せになることに全力で反対したい、ってことなのだろうか?

 

この感覚は私には無いものなんだけど、わりとそう考えている人はいるのかもしれない。

 

  

「とは言え、現実は・・・」

 また、こういう意見もある。

 

「男性も女性も生きやすい社会って言っても、現実は男性が牛耳っているでしょ?だからそういう背景を考えると、女性が生きやすい社会を作ることは不可能だ」

「産休・育休で社員が休んでしまったら、会社がつぶれてしまう。だから男性の育児休暇なんて無理だ」

 

現実を考えると、夢物語みたいなことを言っているから、ゴールの内容にまで反対する人が出てくるのです。

 

こういう意見を言う人は、「そもそもの現実がおかしいから、現実そのものを変えていく」ということを考えられないのだろうか?と思ってしまう。 

 

 

「今までひどい目に合ってきたんだ」

また、こういう意見も見かけます。

 

「今まで私は抑圧されてきた。それは○○のせいだ。だから私を抑圧してきた○○の恩恵を受けてきた人が許せない。彼らは罰を受けるべきだ」

「今まで女性は男性社会で様々な理不尽な目にあってきた。だから多少の強行手段に出ても問題ない」

 

過去の貸しがあるから、今は無茶苦茶なことを言っても問題ないという意見。

いや、「無茶苦茶なことを言う」のは問題でしょ・・・

そして、そういう人はゴールである「平等」まで揺るがせがちで、「平等でも公平でもなく、過去の歴史の分、私を上にしろ」とか言ってきがち。

「ツイフェミ」とかはそういう主張しがちに見える。

 

 

「生物学的には」

続いては、生物学的に女(男)が劣っていると主張する人。

 

「女性は生物学的には群れの調和を大事にするから、リーダーシップを取る管理職には向かない」とか言っちゃう人。

男は仕事、女は家庭が向いていると言っちゃう人。

 

だから、「みんなが自由に生きやすい社会にはしません」って言うの?

「男は○○、女は△△~」っていう人は、男性なら山へ狩りか芝刈りへ、女性なら川へ水汲みか洗濯に行っていただきたい。 

「仕事したい女性だって家事を中心に生活したい男性だっているよね?その人達のことはどう考えているの?」と聞きたい。

「生物学的には~」は、当てはまる人もいるかもしれないけど、もはや我々は「大半がそれに当てはまる」と言えないほど進化を遂げているのではないかと思う。

 

「こうなりたい」と思うのを、「いやいや、それは生物学的に間違っているから却下」っていうのは、意味がわからない。

 

 

「勉強不足だからダメ」

あとは、こういう意見もありましたね。

 

「フェミニズムのことを勉強していない人が発言しても意味がない」

「今までの流れを知らないくせに、1つのことだけで意見しないでほしい」

 

これは、わからなくもない。

「何も知らないくせに、この事件だけ見てこの発言ですかぁ?ああん?」と思うこともある。

でも、そうやって「歴史を知らない人が発言するな」「過去があるから今の流れがある(から、今無茶苦茶なことをしてもOK)」というのは、ちょっと違う気がするんだよね。

 

「北斗の拳を読まずにジャンプを語るな」とか「ワノ国編からワンピースを読み始めたって?そんなのでワンピースを語るな」と小中学生に言うのと同じじゃないの?とも思う。

確かに、「あの発言は、こういう流れからきている」と言うことを理解できていた方が批判・批評も的確になると思うんだけど、だからといって「お前に発言権はない」みたいなのは、おかしい。

発言権は誰にでもあって、ただ内容によっては批判される可能性もあるだけだと思うんですよね。

それで「批判された!ひどい!」っていうのは、ちょっと違うんだけど。

 

 

賛否両論している場合じゃない

色々とあげてみましたが、やっぱり、ゴールを見失ってはいけないと思うんですよね。

 

「誰もが生きやすい社会」

 

その「誰もが」というのは、あなたも私も他の人も全員が生きやすいということ。

幸せを求めることはゼロサムゲームではないし、「生物学的に」「種の保全を考えると」なんて考えなくてもいい。

あっちを立てたらこっちが立たずなこともあるかもしれないけれども、「両立」をどうにか追及する方法を考えたい。

 

「誰かが」生きやすい社会の方が実現が簡単かもしれないけれども、どうにか「誰もが」生きやすい社会を作ることを考えたい。

 

そう考えると、くだらないことで対立しているのって、時間がもったいないと思ってしまうのです。

 

 

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