こんにちは、ドクダミ淑子です。
「この人は過去にこんな『悪いこと』をしてきた人だから、他のことに対して何を言っても聞く価値がない」
・・・という趣旨の文章を読みました。
読んでいるうちに、私の中でもやもやとしたものが発生してきました。
過去の発言で、全ての発言が効果ゼロになる?
その話は、「過去にAという発言をしていたから、Bの件についても評価されない」みたいなものでした。
AとBは直接関係があることではありません。
それに対して、「Aみたいなことを言う人なんだから、Bをしても説得力がない」という人と、「いやいや、Aはよくないけれども、Bは関係なく見るべき」みたいな人もいました。
私だって、聖人君子ではないから、過去の言動なんて掘り起こされたらアウトなものなんてたくさんあるでしょう。
そんな私が何か批判記事を書いたときに、「ほらほら、過去にこの人はこんなことを言っていた。だからこんな記事なんて読む価値がない」と言われてしまえばそれでハイ終了となってしまう。
まぁ、そういうことを言われたら「そうですか、すみません。ではさようなら」と言うしかないんだけど。
ただ、そんなことを言っていたら、誰も何も発言ができなくなってしまうんじゃないか。
この「過去の言動」と「現在の言動」とのギャップはどう埋め合わせをしたらよいのだろうか?
「この指とめよう」の人の指が止まらない
そこまで考えたときに、例の「この指とめよう」のことを思い出しました。
詳細はこちらの記事をご覧いただければわかるのですが、ざっくり言うと「誹謗中傷を止めるために活動します」という団体のトップが過去に子役に「死ね」とツイートしていたり、アドバイザーがいわゆる炎上芸人の方々だったりするという話ですね。
あの騒動の時に、私は「キャンセルカルチャー」について、過去そういう発言をした人は「そういう発言をするような人なのだ」と書きました。
最近は「謝罪したら水に流そうや」っていう風潮で、時と場合によってはそれはありだとは思う。
— ドクダミ淑子 (@dokudamiyoshiko) May 30, 2021
でも、「そういう発言をする人は、根っこが『そういう人』だ」と私は思っている。完全に生まれ変わる人もごく稀にいるかもしれないけど、残念ながら人は、特に大人になってからはそう簡単には変わらない。
つまりは、私は過去の発言だからと言って水に流して、ゼロにできるとは思っていなくて、その話と照らし合わせると矛盾がある。
自分の過去はどうでもよくて、他人の過去には厳しいのか?
これはもしや、ダブルスタンダードなのか?
・・・と思ってもう少し考えたのですが、発言内容がどうなのか?で区別しているのかもしれない。
「この指とめよう」の人たちが批判されているのは、さっきのAとBの話で言うと、「過去にAという発言をしていたのに、それをなかったことにして『Aはよくない、自分たちの手で止めよう』という発言をしている」からなのですね。
おいおいおい、お前の数年前の行いを見てみろよ?みたいな。
過去に何かした人でも、物を言う権利がある。
Aについて炎上するような発言をした人でも、Bについて言及してはいけないなんてことはない。
でも、過去と真逆のことを言うときには「過去を踏まえて」言うべきだと思うのです。
過去の発言を訂正するとか、場合によってはお詫びするとか。
「放火魔が消防団結成」とはたとえて妙だと思う。
薬物中毒者が、薬物中毒者のケアをする団体を立ち上げるのではなく、「薬物が存在するからいけないのだ、世の中から薬物をなくす(私はやってないけどねっ☆)」みたいな方向から活動しようとするから、まるで自分の過去の行いを隠匿しようとしているように見えてしまうのだ。
そこには、ちゃんと通った「筋」がない。
だから私は違和感を覚えてしまうのだ。
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