こんにちは、ドクダミ淑子です。
ある日、「ブログに自分のことを書こうとするから、ネタ切れになる」という趣旨のツイートを見つけました。
共感できる度0.000%だったので、今回はそんなお話を。
このツイートの話ですね。
自分のことなら無限に書けるし、他人の話を読むのも面白い。
— ドクダミ淑子 (@dokudamiyoshiko) December 13, 2019
これを書いたりこれに共感している人は、これが足りないのでは?
・物事を経験した量
・経験したことを深く考える力
・他人の話を咀嚼する力
・自分と違う人を受け入れる心の余裕
…と圧倒的当事者意識の私は思いました。
自分のことなら無限に書けますが…
そもそも、「自分のことばかり書こうとするからブログのネタ切れになる」というのが、全くわからない。
ネタ切れになるの?自分のことなのに?
私はですね、自分のことなら無限に書けると思うのです。
無限は言い過ぎかもしれませんが、1日1ブログは必ず書けます。
「時間さえあれば」だけど。
だって、私、生きていて、生活しているんだもん。
24時間の中で、何も書くことがない毎日って、なくないですか?
その日にたとえ何もなかったり、書けるネタがなかったとしても、これまでの人生のことで振り返って書けること1個くらい、ないですか?
え?ないの?
そうなの?
見ているものは同じ、でもそれを調理する力がないだけでは?
話は少し変わりますが、営業マンについて、こんな有名な話があります。
トップ営業マンと売れない営業マンで、同じ部屋に案内されて、部屋を出てから「気づいたこと」を聞くと、売れない営業マンはほとんど出てこないのに対して、トップ営業マンはいくつも気づいたことが出てくる・・・と。
案内された部屋は同じ、でもその中で「情報がある」と思い、情報を探そうとして、そして見つけるということが、無意識にできるかできないかで、結局ゲットできる情報は変わってくるのです。
だから、問題は、「書けない」ことではなく、「ネタを見つける感度が低い」ってことなんじゃないの?さっきの営業マンの話で言うと、ボーっとしていたから何も見えなかったんじゃないの?って思うのです。
自分のことを書くときの注意点
とはいえ、自分のことを書くときに、ちょっとした注意は必要だと思います。
私が注意しているのは、「独り言」にならないこと。
そして後日見直しても、どういうことがあったのかわかるようにすること。
「あ~今日も疲れた~だりぃ~」
「なんか嫌なことがあったわ~凹むわ~」
・・・これでもブログとして成り立つし、こういうのをつぶやく人もいます。
別に、悪いことではない。
でも、赤の他人が読んだ時に、何が何だか、わからないんですよね。
というか、本人が読んでも、当時何をしていたか、全くわからない。
そういうのは確かに私としては「読む気のなくなるブログ」の1つですし、「自分のことを書いていてつまらないブログ」なのかもしれません。
だから、「今日も疲れた~だりぃ~」「なんか嫌なことがあったわ~凹むわ~」なら、その疲れはどこから生まれて、どうやって癒すのか?とか、嫌なことを詳細に書くとか、「凹むと言ったら昔こういうことがありまして」みたいな別の話題へのマジカルバナナにしたりと、一時の感情を書いて終わらないようにすればいいと思うのです。
それだったら、数年後読み返しても何の話だか、わかるし。
他人の話を受け入れる心の余裕を持ちたい
また、ツイートの主は「みんな自分のことでいっぱいいっぱい」と書かれています。
でも、これってそもそも事実なの?って思う。
私は他人の話を聞くのも好きだし、自分の話をするのも好き。
なぜならどちらも、自分との対話になるから。
人の話を聞きながら、自分の意見を言いながら、私は自分の脳で言葉を整理し、書き直しています。
それはこうやって、キーボードを叩きながらも、そう。
ただし、自問自答よりも、他人の話を聞いて、咀嚼する方が労力がかかるし、頭も使います。
なぜなら、自分と違う考えをまずは理解し、かみ砕き、自分に置き換え、そして結論づけるという工程になるからです。
そういう心と脳みそのキャパがないことを「みんな自分のことでいっぱいいっぱい」と言ってしまうのは、あまりにも浅いし、つまらないんじゃないかと私は思うのです。
そんな気持ちで、他人の話も自分の話も受け入れつつ、自分語りをして900記事を超えました。
世の中は広いので、そんな人間もいるのです。
どうか、自分だけの意見が真実だと思わず、広い目線で色々なことを見ていってほしいなと、ババアは思うのです。
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