こんにちは、ドクダミ淑子です。
Twitterで、こんなツイートが話題になっています。
- ビールの売り子、いい加減に廃止したほうがよい
- 球場がキャバクラ状態になってとてもスポーツの場じゃなくなっている
- 売上ランキングを発表しミニスカートを着せて売らせるスタイルをやめろ
- あの子をNo.1にするために何杯買うとか、10杯買ってLINE教えてもらったとか、SNS監視しているとかいう会話が飛び交っている
- 野球少年が一生懸命応援している近くで(不健全だ)
私は、このツイートを読んで、久しぶりに1ミリも共感できなかったんですよね。
ですので、今日はこの話を元に書いていこうと思います。
私は、球場の楽しみ方はいろいろあると思う
私は年に1回くらい、野球観戦に行きます。
なぜなら、外で、昼間から、ボーっと試合を見ながらビールを飲む瞬間が楽しいから。
別にどのチームが好きということもないので、空いている日・行きたい日に行き、取れた席側のチームを応援し、ビールをたらふく飲み、好きな時に帰ります。
外野席だとそうもいかないけれども、内野だとそのくらいのノリの人は沢山います。
ユニフォームや応援グッズを来て、写真をとってSNSに上げることだけを楽しんでいる女子グループ(3回くらいで帰ることもある)、ビールの売り子としゃべりたいオヤジ、久しぶりに会って近況報告をしている男子、子供連れ、三世代・・・そんなのがごった返しているのが内野席です。
ガチで応援したい人は、外野席にいるんですよね。
ディズニーランドでもUSJでも、楽しみ方は人それぞれです。
アトラクションに乗りまくりたい人、景色を楽しみたい人、パレードだけ見られれば満足な人、限定のグッズが欲しい人、ゆっくり食事を食べたい人。
それと同じように、野球場も、色々な楽しみ方があっていいと思うんです。
それなのに、「パレードでミッキー(エルモ)を見ないで、ダンサーばかり見ている人なんておかしい!ダンサーなんて廃止してしまえばいい」と言っているような気がして、私は違和感を感じてしまうのです。
そもそも、球場は神聖な場所なのだろうか?
そもそも、野球場、特にプロ野球は、野球だけを観たい人が観に行く、神聖な場なのでしょうか。
野球場に行ったら、みんな野球を集中して見なければいけないのでしょうか。
私はそうではないと思います。
野球好きオヤジが、大声で応援して、ストレス発散して、その後も居酒屋で「今日の○○はダメだったな~」なんて言いながら飲む・・・そんな娯楽の一つだと思うのです。
実際私も、試合を見に行くというか、ビールを飲みに行っているしな。
それを、純粋にスポーツを見ることだけの場所だと思っていることが、そもそもちょっとずれているのではないかと思うのです。
ビールの売り子も、ミニスカート履いてビールを売りたくない子はやらない。
稼ぎたい子や有名になりたい子が、すすんでやっているのではないかと思うのです。
彼女らは、仕組みがどうのではなく、勝手に差別化ポイントを作り、勝手にバンバン売っている。
それをどうして「不健全だから廃止」となるのかが、ちょっとよくわからないのです。
一人よがりな見方しかできない人が増えているのではないか
先日、とある後輩を見ていて思ったのですが、このツイッターの主のように、単一的なモノの見方、一人よがりなモノの見方しかできないというか増えているのではないかと思うのです。
- 私の考えが正しくて、他の人がみんな間違っている
- だから、間違った意見は聞く意味がない
- 自分と意見が合わない人は、無視すればいい
私の職場の若い後輩は、こういう理論で動き、自分と違う考え方とか、違う論理で動いている人が来ると、どう対応していいかわからなくなって、そのまま接点を持つのをやめてしまう子がいます。
結果的に放置状態になり、クレームを起こしてしまいます。
そして、私たち中堅世代はその後始末をします。
ある日、クレーム対応の帰り道に、後輩に「どうしてそんなこと(放置)をしたの?」と聞くと、こんな答えが返ってきました。
「だって、お客様が私の提案に対して変なこと言うから、もう関わりたくなかったんです」
「でも、○○っていう意味で、そういうことを言ったんじゃない?」
「そうかもしれないですね・・・」
「あなたのものの見方も合っているけれども、別の見方も正しいんじゃない?いろいろな考え方、モノの見方があるんだから、色々な人の気持ちや立場に立って考えてみた方が、こんな風に怒られることが減るよ。」
「そうですね」
「それに仕事の幅が広がって楽しいと思うよ」
世の中には色々な人がいて、色々な考え方がある
自分の考えが常に正しいわけではなくて、色々な正しさがあるかもしれない
これを私自身は、常に意識して仕事に取り組んでいます。
ここまで書いて、自分の考えを疑いだしてしまいました。
「自分と考え方の違う人と分かり合うことは、果たして本当に必要なことなのだろうか?」
こちらについては、また機会を改めて書いてみようと思います。
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