
こんにちは、ドクダミ淑子です。
いまだに自分の中で消化できていないんだけれども、子どもが1歳半くらい、「よたよただけれども歩きたい盛り」の頃の話です。
当時の子どもは「階段を上りたい」って気持ちがめちゃくちゃ強くて、まぁ上っても下りられないから、保育園の帰りに、某所の階段を上り、エスカレーターで下りるっていうのを繰り返ししていたんですね。
その頃はベビーカーだったから、ベビーカーをその階段の隅っこに置いて、上っては下りを繰り返していたのです。
まぁ時間はたっぷりあるし、上りたいなら上ってくれよという、私のいつものアレで。
その日も「それ」が始まって。
私はサッとベビーカーを畳み、階段の隅に置いて子どもを追いかけようとしました。
すると・・・
高齢女性の集団に遭遇
「あらまぁ、大変!」
後ろから声がしました。
振り向くと、顔を見合わせて「行くわよ」みたいなアイコンタクトを取り頷く高齢女性の集団。
そして我が子に駆け寄り抱きとめようとする。
「大丈夫です!」
「いいのよいいのよ、あなたはベビーカーを持って!」
そう言って我が子を抱きかかえようとする方々。
いや、やめてくれ・・・!
「大丈夫ですから!」
ベビーカーを置いて子どもに駆け寄り、もう一度断りました。
今度はベビーカーを持ってこようとする女性たち。
いやそれもまた持ち歩くの大変だからさ・・・むしろ道端に放置しているのを見て見ぬふりをしていだきたいのだけれども。
もう断るのも面倒なので、子どもとベビーカーを両脇に抱えて、階段の上まで上り、上がったところの隅にベビーカーを置いて、エスカレーターでまた下りました。
怖かった・・・
何が怖かったかって、よく知らない人に我が子を抱きかかえようとされたこと。
私が世話焼きおばちゃんに慣れていないからかもしれないけど、あの「ママの味方!」みたいな圧も怖かったな。
道行く人の親切を拒否する=全ての助けからの拒絶?
まぁそんな経験があったんだけど、ある方と「道行く人に助けを求めるならば」みたいな会話の中でその話をチラッとした時に、「そういう親切を拒絶するのに、自分にとってありがたいと思う親切だけ享受したいというのは無理な話だ」という趣旨のお返事をいただいてですね・・・それは盛大にモヤモヤしたものです。
まぁ、その理屈はわかるんだけどさ。
あの時は、「子どもを奪われるんじゃないか」という恐怖を感じてしまったんだよな。
だからといって、道行く人の親切すべてにそう感じるわけではなくて、ほとんどの場合、私はありがたくその親切を頂戴している。
その差はどこにあるの?と言われると定義もラインも曖昧で、ケースバイケースだから、なんと言って良いかわからないけれども、少なくとも「私(道行く人)は子どもを抱っこ、あなた(ドクダミ)はベビーカーを持って!」っていうのは何か違うんじゃないかと思う。
まぁ、それでも「お前が親切のジャンルを選んでいる」と言われればそうなんだけど、ほら実際に、倒れた女の人に必要以上にベタベタ触ろうとする男の人もいるからさ・・・そういう時に女性がサッと前に出た方がいいと思って、行動したりもするけど、それが迷惑かもしれないし・・・とか考えてしまう。
無意識に親切にできる人でありたいけど
私も、モヤモヤと考えずに困っている人がいたら、さっと手を差し伸べられる存在でありたいと思ってはいる。
いつだったか、駅のホームでいきなり倒れた高齢男性がいて、倒れた拍子におしっこを漏らしてしまっていました。
そんなことも気にせずに看病していた男子高校生がいて、素晴らしいなと思う反面、じゃあ私がおしっこを漏らした老人に対して、さっと手を差し伸べられるかというと、そうではなくて、自分の器の小ささに嫌気がさしました。
誰にでも親切にできて、誰からの親切もありがたく享受できる人になりたい・・・
ここで義母アレルギーの話
・・・とか書いていたんだけど、定期的にTwitter(現X)とかで出てくる、「義母アレルギー」「義母嫌い」を見ていると、やっぱりそうもいかんよなって思う。
ありがた迷惑っていうのはやっぱりあって、こちらが望んでいないことを「良かれ」と思ってやってくる人って、意外といるんですよ。
「そんなのテキトーに流しておけ」と言っても、毎月いらない物贈られて、それのお礼LINEしたりとか、メルカリとかゴミ捨てとか何かしら作業が発生したりとかするのは苦痛でしかないんでしよね。
・・・って考えると、やっぱり「親切」も都度都度ありがたく頂戴するかお断りするかは選べるものだとは思うのです。
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