こんにちは、ドクダミ淑子です。
「ちょっとおかしな人」っているじゃないですか。
知的に障害がある人、精神に障害がある人、障害があるかどうかわからないけれどもこだわりが強かったり、言っていることが支離滅裂だったりと「あれ?」と思う人などなど・・・
そういう人を「おかしい人がいる!」って騒いだりするのを見ていると、私は「やめておけよ」と思ってしまう。
少し前だけど、電車の中で車掌さんの真似をしたりする人のことを「不審者」と書く聴覚障害者(聾者)を見かけて、とても気分が悪くなった。
自身に障害があったら他人の障害に優しくなるわけではない。
自分の人権ばかりを主張して、他人の人権は軽視するような人もいるのだなと改めて思った。
優しい無関心よりも、厳しい関心
そういう「少し外れた人」みたいな人って、ひと昔前までは「世の中いろいろな人がいるんだな」と思って、さりげなく距離を置いたり見てみぬふりをしていたと思うんだけど、最近は「見てみて!こんな変な人がいたんだけど~」みたいな感じで、自分と違うことを見つけてほじくってあげつらう人が増えている気がする。
いや、SNSで簡単に上げられるから、そういう人が目立っているだけか?
今までだったら「通りすがりの変な人」くらいに思っていても写真に撮ったり、発信するのがそう簡単ではなかったから、問題にならなかったのかもしれない。
子どもが「ママ~、変な人がいる~」って言っても、「やめなさい」と制して、親がきちんと説明してあげるというのも、もしかしたら減っているのかもしれないな。
「ママ~、変な人がいる~」の精神のままSNSを使っている人間がたくさんいるのだろう。
なんか、「世の中色々な人がいるからね・・・」みたいな、優しい無関心よりも、「私と違う人がいる!直させなければ!」みたいな厳しい関心が向けられている気がするのだ。
あとは、「こんな人いるけど、それって私が間違っている?私の方が正しいよね?ねぇねぇ!」みたいな人も増えているかな。
自分の正しさを強調したいが故に他の人を比較対象として土俵に引っ張り出す人。
自分が正しいかなんて、わからない
これは私の思い過ごしなのかもしれないけれども、なんとなく「人は努力して歩みあえば分かり合えるはず」といった、ピュアというか能天気というか、みたいな人が増えている気がする。
それは日本がとても平和である証拠で素晴らしいと思うんだけれども、実際に人と人とはどうしても何をしても分かり合えないことだってある。
というか、分かり合えないことの方が多い。
そんな中、「無理して分かり合えなくてもいいや」を取るのか、「いやいや説明すれば絶対に分かり合える」なのかで、後者を選択する人が増えているような気がするのだ。
ただ、それって「説明すれば”私の考えを”理解してもらえる」「”相手に”考えを改めてもらえる」と思っているような気がしてならない。
「妥協」「すり合わせ」「歩み寄り」ではなく、相手の考えや態度を自分の心地よい形に改めてもらうみたいな感じ。
だから、「話せばわかる」というのはある意味とても幼稚な思考だと思うのだ。
話すことで、分かり合うためには、自分の意見も変えなければいけないだろうけれども、そういうつもりが見えない人がいる。
「私の方が正しいのだから、変えるべきは相手なのだ」みたいなものを感じるのだ。
そして多数決を取り、共感してくれる人を集め、自分の「正しさ」っていうのをさらに固めていく・・・
自分が正しいかどうか、相手が間違っているかどうかなんて、多数決でわかるものではないんだけどな。
分かり合えないことを、分かり合う
だから、冒頭に戻って。
道行く他人について、「皆さん、ここに変な人がいます!」ってわざわざ声をあげる必要なんてないと思うんだよな。
「世の中色々な人がいるなぁ」と思って、スルーすればいい。
仮に不快だと思うなら、自分がその場から離れればいい。
分かり合えない人がいることを、常に頭の片隅に置いておく。
そっちの方が、世の中トータルで平和にやっていけると思うんだけどな。
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