こんにちは、ドクダミ淑子です。
私ごときのどうでもいい些末なアカウントにも、極稀にですが「アンチ」というのがいるようなのです。
今回は、そんな話を。
アンチのアンチ
私は一般的には、「某女性No.1インフルエンサー(光文社調べ)のアンチ」らしく、したがって私のアンチは「アンチのアンチ」と呼ばれています。
アンチのアンチの主張は、ざっと見た感じこんな内容。
- アンチ活動なんて、やる意味がない
- こんなくだならいブログなんて、誰も見ない
- アンチ活動で小銭を稼いでいる貧乏人だ
- ご飯がまずそう
- 無料で使っているTwitterでブログのURLを貼るのは悪だ
- 自分がセックスしているからって、セックスレスのはあちゅうを馬鹿にするな
うーん・・・何も刺さらないんだけれども、どうしたらいいんですかね?
アンチのアンチ活動をやる意味
まずね、主張その1「アンチ活動なんて意味がない」なんですけど。
まぁそれが正しいとしたら、「アンチのアンチ活動」なんていうのは、もっとやる意味がないと思うんですよね・・・で、終~了~!ってなってしまうワタシ。
でも、自分がそんな矛盾まみれの言葉を吐いていると気づかない人だからこそ、そういう主張をしてきているのだろうから、「あなた矛盾してますよ?」と指摘してもきっと意味のわからない返ししか来ないだろう。
議論が出来ない人との会話ほど、無駄な時間はないから、慈愛の目で微笑みながらそっ閉じする。
次に、主張その2「ブログなんて見ない」についても、「まぁ別に・・・誰も見なくても私が書きたいから書くんですけどね」・・・で終了。
3以降は、規則も根拠も何もないので、もう「それってあなたの感想ですよね?」「ご想像にお任せします」でいいや、と思う。
世の中の「趣味」なんて、意味はない
だいたいさぁ、生きている中で、「仕事」「家事」「育児」以外の余暇活動に「意味」なんてある?
空き時間に資格の勉強をしたり、育児に役立つ情報を調べたりしている人は立派だよ?
でも、そういう「≒仕事」とか「≒育児」みたいなもの以外の、完全なる「趣味」とかに意味とか生産性とかを求めてどうするのよ?
時々、「ゲームなんて時間の無駄、生産性のない遊び」とか言っている人を見かけるけれども、じゃあそんなに生産性を上げて意味のある活動をして・・・どうしたいのさ?
趣味なんて、生産性もやる意味も何もなくても、やりたいことをやればいいだけなのよ(家庭や仕事に支障をきたさない範囲内で)。
だから、私は「アンチのアンチ活動」も否定しない。
やりたければやればいいじゃん。
それで自分が楽しかったり、心が少しでも晴れるなら、私には止める権利も批判する権利もない。
ただ、その活動で私の心が動き、何かの変化があると思ったら残念ながらそれはない。
誰になんと言われようと、夫に「ランクが上がらないなら、やる意味ないんじゃないの?」と言われながらも、私はスプラ3をする。
理由は「楽しいから」、ただそれだけ。
ただし最近は平日寝落ちするし、土日はジムに行っているし、読書やブログを書いたりするので忙しいので、頻度は下がりがち。
でも、楽しいから続ける。
夫がゼルダをやる隙を見つけて、私はスプラをするのだ。
最愛の夫に「意味がないからやめたら?」と言われているスプラでさえやめない私が、よくわからんアンチのアンチとやらに「意味がないからブログを書くのもTwitterをするのもやめろ」みたいなことを言われても、やめる余地なんて生まれると思ったら大間違いなのだ。
目的が「発信をやめさせる」なら、対象を変えることをオススメしたい
そんな感じなので、アンチのアンチの目的が「私にブログを書いたりするのをやめさせたい」なら、その目的は多分一生達成できないと思う。
それでも「やりがい」があるなら、是非そのアンチのアンチ活動を続けていけばいいんじゃないかな?
何にせよ、毎日楽しく生きられれば、それでOKなんですから。
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