こんにちは、ドクダミ淑子です。
はあちゅうさんのサブスクに入って、せっせとプレミアムな投稿を読んでいます。
その中で、改めて思ったことがありました。
それは、「この人って本当に半径5メートルの世界だけで生きているんだな」ということです。
それって情報商材しぐさ?
サブスク投稿の内容は、最初は「私のサブスクが月800円の理由」というテーマでの連載。
私はお金を払って延々と「600円はほぼ500円で、800円はほぼ1000円」みたいな迷台詞のシャワーを浴びさせられていました。
「私がお金を稼いでいる理由を知りたい?ならば1,000円頂戴」
「はい」
「これがその方法だよ」
・・・という、情報商材屋のやり口を思い出しました。
「私に800円を払ってもらう理由は、私が一生懸命考えて800円にしたからです!」を全3回に渡って説明される。
これで「はあちゅうさんの頭の中が知れてよかったです!」とか言ってる人達がちょっと心配になってきます。
そこから、影響を受けたエッセイの話題になったのですが、それを読んで出てきたのが、さっきの「半径5メートル人間やな」って感想でした。
いいエッセイとは?
「サブスク800円の理由」という、しょうもない3投稿の後に、影響を受けた本についての投稿になりました。
食べ物の話でもすぐに値段の話をするのは、はあちゅうさんらしいなと微笑ましく読んでいたのですが、その中で「いいエッセイとは何か?」という問いがあり、彼女の答えに引っ掛かりました。
彼女の考える「いいエッセイ」は・・・読んだ時に「自分事」として思い出されて、自分も何か語ったり書きたくなるものだそうです。
だから、エッセイを前菜に自分の話につなげて、何の話をしても絶対に自分の話で返してくるおばちゃんみたいになっているのか。
自分とは違う考えに触れるのも読書の醍醐味よね
私は読書には2パターンあると思っています。
1つは、はあちゅうさんの言うように自分の考えの裏付けになるような、自分の記憶と重ねたり共感したりするような読書。
読みながら「そうだよね!」と納得して、自分の考えをなぞって固めていくような感じ。
ただ、それだけだと自分の世界が広がるかというとそうではなくて。
もう1つの「読んでいて新しい発見がある」「自分とは違う考え方に触れる」という読書も大切だなと思う。
これは自分の心と脳の容量に余裕がないと出来ないから、なかなか厳しいんだけど。
自分の凝り固まった考え方に対して、自分にはない視点でガツンと殴り込みにくるみたいなエッセイも、また「いいエッセイ」だと思う。
さすが半径5メートル人間
・・・んだけど、たぶんきっと彼女はそういうものでも「自分というフィルター」を無理矢理かけて読み解こうとするんだろうな。
「夫(当時)は私のことを介護してくれないと思う」「愛しのけんちゃん(当時の夫)がサイボーグになったら」みたいなレビュー記事を書いていたりもしたし。
はあちゅう「自分ゴトの解決が社会のためになる」 ネオヒューマンは現代の生きるアート、希望だ | 読書 | 東洋経済オンライン
(おいおい、3年くらい前にもほぼ同じようなこと書いてるじゃないか・・・)
とにかく、何でも「自分というフィルター」に無理矢理当てはめて考えようとする姿勢だから、物の見方が狭いんだろうなと思う。
多くの人は、「世の中には自分と違う思考回路の人がいる」ということを大人になる過程で理解していくのだけれども、彼女の場合はそれでも自分との共通点みたいなものをこじつけている気がする。
さすが、登場人物全員がはあちゅうさんみたいなキャラの小説を書くだけあるなと思った。
『半径5メートルの野望』では、「自分の興味関心から出来た自分テリトリーから発信して、それに共感してくれる人との交流で世界を広げて行こうぜ」といったことが書かれているんだけど、10年経ってみても世界が広がっているようには見えない。
「異」との衝突を拒絶し続けると
彼女を見ていると、半径5メートル理論には限界があるんじゃないかなと思う。
何でも「半径5メートルの世界」に置き換えることで、自分の経験と重ねて考えることが出来るかもしれないけど、考え方のバリエーションが出来ない。
60年前の田舎の少女の誕生日会に出ていたご馳走を、30年前の自分の少女時代のご馳走に置き換えることで、消えていく情報がたくさんある。
そういうことに気づかず、「いいエッセイを読んだ」となるのは、なんだか勿体ない読書の仕方だよなと思った。
自分とは違う「異」なものとの接触とか、時には衝突とかは、結構なストレスがかかるものなんだけど、その分自分を成長させてくれるものなんだよな・・・なんてことを改めて思ったのでした。
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