ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚40代女、ドクダミ淑子の毎日

周りに配慮を求めすぎるのはどうなのか問題

こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

毎回、難しいなぁ・・・と思いながら見ていることがある。

 

「○○な人の気持ちにもなって下さい」という、あれこれ。

 

 

偏食の気持ちを分かって下さい

今回その話を見かけたのは、「マツコの知らない世界で、給食の工夫特集を見ていて、完食することが素晴らしいという圧を感じた」みたいな風に書いている人を見かけたこと。

「うちの子は、栄養士さんに感謝していないから食べられないわけではなく、生理的に受け付けないからなのに、それを感謝が足りないみたいに言われているみたいで」という内容。

 

全文載せておきましょう。

 

昨日「マツコの知らない世界」がカリスマ栄養士さんの作る給食回だったんだけど、「栄養士さんはこんなに工夫してる」「完食してもらう事が喜び」っていう流れでね。それはもちろんわかるし途轍もなく大変で尊いお仕事だと思うんだけど、番組全体を通して「こんなに工夫された給食を残す子は我儘」「モリモリ食べる子は素敵」っていう空気がやっぱり流れてた。給食を食べられない子は感謝が足りないとか道徳心が無いとか、一歩間違えればそういう誤解を招き兼ねない内容だった。そういう空気が、どう頑張っても苦手なメニューを口に含むと体が勝手に吐き出してしまうような偏食の子を苦しめるという事も、もっと広まればいいなぁ。一緒に見ていた偏食息子も「栄養士さんに感謝してないから食べられない訳じゃない。」と言っていて、ジャコご飯が苦手な子のためにそこに甘い干し芋を入れるという栄養士さんのアイデアに、「それが辛いんだよ…甘みでカバーされるんじゃなくて味とか匂いが混ざると更に辛いんだよ…」と言っていて、元偏食児(給食は息を止めて丸呑み戦法でほぼ完食してきた)の私もわかりみしかない状態だった。どうしても食べられない子の感じ方を知ろうともせずに「これなら食べられるはずだよね?」と押し付けてくる感じ、そして食べられないと「食への感謝が足りない。親はもっと食育を。」という結論に達する空気。それが毎日毎日どんなに工夫しても子供があまり食べてくれなくて途方に暮れている親と、毎日毎日給食の時間に罪悪感を感じ続けている子供の両方を追い詰めてるんだよ。

ワカッテクダサイヨー…

 

うちも偏食児×2名(うち1名は40代男性)を抱えているんですけれどもね。

2人とも、口に含んだ瞬間オエっとなる食材があるので、それを無理して食べさせることはしていないし、食べなくていいよと言っている。

食材はできるだけシンプルな感じで出すようにして、「何が入っているか」がわかりやすいようにしている。

その結果「切るだけ」「茹でるだけ」とかが多いんだけれども、安心して食べられるようなのでそれいいかと思っている。

最近私はポタージュにハマっているけれども、4歳児は「何が入っているかわからないドロドロの液体」なんて絶対に口にしない(夫は内容物を私に確認してから飲む)ので、コンソメスープはじめとした透明スープか、味噌汁くらいしか出さない。

うちの子はスナップえんどうが大好き

 

食べられるものはきちんと食べているし、少しずつ食が広がっていくといいなとは思っているから、ミールキット等を使いながらメニューは増やしている。

 

・・・んだけれども、そこで「圧」とか「可哀想」とか「ダメだ」とかはあまり感じなくていいんじゃないかなと思っている。

食えないもんは食えない!以上!でいいじゃん。

 

そこに「皆と同じものを食べることが出来ない」という意味を付けてしまうから、余計に拗れてしまうんだろうと思う。

食べられないなら仕方ないじゃん!くらいに開き直れればもっと楽になるんだろうなと思う。

そうはなれないのが、小中学生なのかもしれないし、私自身は雑食だからそのくらいのんびりしていられるのかもしれないけれども。

 

 

配慮ってどのくらい必要なのか?

他の人が出来ていることに対して「出来ない」「やれない」ということに、人は劣等感とか罪悪感を持つこともあるのだろうけれども、それに対しての「配慮」ってどのくらい必要なんだろうか?

身体障害・精神障害等をはじめとした、どうしても出来ないことに対しての合理的配慮みたいなのは必要なんだけれども、昨今のXやスレッズみたいなぼやきツールを見ていると、「いやそれは貴方の心の持ちようだけで事態はいい方向に行くのでは?」と思うことがあったりする。

 

生理的に食べられないことに「配慮」とか「罪悪感」とかあまり感じなくてもいいし、「完食したら作った人が喜んでくれる」を「完食しなかったら作った人が悲しむ」に変換しなくてもいいんじゃないか。

それは気にしすぎじゃない?と思ってしまう。

 

「羨ましい」を「裏切者」に変換する話みたいな。

 

www.dokudamiyoshiko.com

 

 

給食が食べられない子、体育が苦手な子、音楽が苦手な子、算数が苦手な子、作文が苦手な子、その他色々なことに対して、全部「その子が苦しまなくていいように配慮しろ」となるとキリがないわけじゃないか。

じゃあすべてのことをカフェテリア形式で、「今日は体育と図工だけ授業に出て、あとは本を読んでいる」とかでやっていけるのか?というと、そうじゃないと思うんだよな。

別にそれが本来の目的じゃないけれども、自分のコンプレックスとか出来ないことに向き合うことも、学びの一つなんじゃないか?と私は思ってしまう。

 

www.dokudamiyoshiko.com

 

「出来ないこと」に向き合って、「出来ないけれども仕方がない」と自分の中で折り合いをつけて、「じゃあその代わりに何をするか」まで考える。

・・・そこまでセットで、学びなんじゃないかなと私は思う。

 

 

ハッピーな方に寄せていきたい

恵まれない環境や境遇について理解をしたいと思うけれども、自分がそこに引っ張られないようにしたいし、世の中のスタンダードを「恵まれない人に寄せたもの」にすることには違和感を感じる。

世の中のスタンダードは、ハッピーな方がよくないか?

 

ただそうすると「不幸だった過去の自分がなかった存在のように扱われる」とか感じる人もいるんだろうけれども、そうじゃないんだよな・・・と思う。

たとえば、ランドセルを買ってもらえなくておさがりだったことがネガティブな思い出になっている人が、新品のランドセルを背負っている子どもを見て悲しい気持ちになるのはわかる。

でも、そこで「ランドセルを買ってもらえなかった私に配慮しろ」というのはちょっと違うわけで。

じゃあ皆がお古のランドセルを使えば解決なのか?というと、そうじゃないし、そんな世の中はちょっと寂しいと思うんだよな。

 

過去のことは修正できないし、過去の自分と現在の子ども達は別次元だから、そこに「配慮」を求めるのは違うと思う。

先生や周りの大人が「○○さんのランドセルが古いことについて触れちゃいけないよ」と言って、同級生の子の口をふさぐことで解決するのかもしれないけれども、そこには薄っすらとしたバリアが張られていて、そのバリアに気づいた時の方がもっと傷つくんじゃないかな。

 

「配慮」は必要なんだけれども、配慮を考えれば考えるほど、世の中がどんどん変な方向に行きそうな気がしてしまう。

 

あまり色々な方面に考えすぎて「配慮」を求め過ぎる世の中よりも、「出来ないものは仕方がないよね~」くらいに思えるような世の中にした方がハッピーなんじゃないかなと私は思う。*1

 

 

こちらもどうぞ

www.dokudamiyoshiko.com

*1:こういうことを書いていると、それは強者の理屈なんだと思われるかもしれないけれども、私は別に強者でもなんでもない。ただ色々なことを経験して、その結果開き直って楽しく生きているだけだと思う。