こんにちは、ドクダミ淑子です。
とあるフードコートのストリートピアノが撤去されたという出来事に関するあれこれが目に入ってきました。
きっかけはそのピアノの管理人が「練習は家でしろ」とお知らせをしたこと。


私が悪いと言っているけれども
これは日本人だからこその感覚なのだろうか?
つたない文章で「私が100%悪いんですよ!」と言われると、どうしてもその行間から「いやいや、100%悪くはないでしょうの言葉を求めている感」を察知してしまう。
これが欧米だったらそういうことはなく、「そうか、自分の非を認めているだね、わかった」で終わるのかもしれないけれども。
でも、そんな風に「私が悪い」とか素直に認められるのならば、初手の時点で「こういう意見が飛んでくる可能性」とかを全く想定しなかったのだろうか?
自分が考えていることが100%正しいみたいな感じで「たまったもんじゃないんです。」とか書いちゃう人が、そんな簡単に180度意見を変えるか?というと、やっぱりそうじゃないんじゃないかと思ってしまう。
置く場所の問題じゃない?
炎上した時に出てきた「フードコートみたいな、立ち止まらないという選択肢がない場所に設置するというのがそもそも間違っている」というご意見が、ごもっともだと私は思っています。
上手い/下手の感覚なんて人それぞれだし、幼児がニコニコで鍵盤をガンガン叩いて不協和音を出しているのも「可愛らしい」と思うか「不快な音だ」と思うかどうかなんて人それぞれなんだからさ・・・
フードコートに置くなってば・・・

自分の感覚は必ずしも正しくはないということ
おそらくだけれども、このストリートピアノの運営者は、「下手なピアノは恥ずかしいから堂々と人前でなんて弾かないものだ」と思っていたのだろう。
世の中には色々な人がいて、下手なピアノを「下手だ」と思っていない人もいるし、下手だと理解しながらも人前で弾こうとする人もいる。
逆にどんなに上手でも知らない人の前では弾きたくないと言う人もいるかもしれない。
上手い人の方が注目されてしまうから恥ずかしいと思うかもしれないし。
そして、つたない演奏を「微笑ましい」と思う人も、「不快だ」と思う人もいるということにも気づいていなかった気がする。
そうなんだよな、世の中って本当に色々な人がいるんだよな・・・
その中で「自分の正しさ」みたいなものを貫き通そうとすることの難しさっていうのがあるよな・・・と色々考えてしまった。
先ほどは「私は悪くないみたいな行間を感じ取ってしまう」と書いたけれども、実際のところはどうかわからない。
でも、世の中には「色々な感覚の人がいる」ということを、この出来事を通じて感じ取ってもらえたらな・・・と思う。
不快なものに出会った時
・・・といい感じにまとまったけれども、やっぱりちょっと書きたい。
「不快」と感じる出来事って今後も色々なシーンで起こると思うんだけど、基本的には「不快だから排除する」ではなく、「不快だから自分はその場から離れる」をベースにした方がいいんじゃないかと思う。
今回のケースはフードコートという離れられない場所というのが問題なんだけど、それでも「席を立つ」という選択肢を1位にしておいた方がいいんですよね。
自分が食べ途中とかそういう「損害」を被るのかもしれないけれども、それも含めて。
私自身、絶対音感が過敏に反応してしまって、音を外す人の歌声が耐えられなかった時期なんかもあったんだけれども、その対策は相手に「歌うな」ということではなく、自分の耳を塞ぐことなのよ。
なんか最近、「自分が不快だと思うから、相手を黙らせる」みたいな事例が多すぎて嫌になってしまうのよ。
それがエスカレートして、開示請求含めた法的措置をバンバンして訴訟!訴訟!みたいになっているのも。
「自分の感覚が必ずしも正しくはない」という気持ちで、世の中の色々なことに接していった方が、生きやすくなるんじゃないかなと私は思う。
こちらもどうぞ