こんにちは、ドクダミ淑子です。
先日、越後湯沢から東京への新幹線に乗っていた時の話です。
高崎駅か前橋駅を通過している時にふと思いました。*1
都市部ではこういう看板を見かけなくなったなぁ、と。
大きな文字・目立つ色とフォント・クマさんの手描き風のイラストの立て看板たち。
車や新幹線からの見やすさとかを考えると、こんな看板になるんだと思いました。
ダサい。
しかし、かなり目を引く。
この「ダサいけれども目立つ」というのはデザイナーを悩ませる問題です。
時々、仕事をしていてもお客様に「もっと目立つデザインを」と言われたりします。
「自分で作ってみたんですけれども」とお客様が作ったものを見せてもらうと・・・創英角ポップ体!?
私よりも10歳以上若いのにそのセンス!?
いや、わかるよ。
目立つしわかりやすいし。
わかるんだけれども、令和のこの時代、そのデザインでいいんですか?と思ってしまう。
出してもらったものをベースに、もう少し今風にアレンジしたものを出して、「おしゃれになりましたね」と褒めてもらって、この件は終わったんだけど。
デザイナーの人は、きっとダサさと視認性の高さとのバランスを見ながら、というか、戦いながらデザインをしているのだろうなと思う。
ダサいものは目立つ。
でも、あんまりダサくなりすぎるのも問題だ。
・・・そんなことを考えながら街を歩いてみると、ダサいものをそこらじゅうで見つけた。
幼稚園の入園説明会のお知らせ、自治会の行事のご案内、迷い猫のポスター・・・・
うちの子どもの保育園は割とおしゃれぶっているけれども、園だよりは昔ながらのフォーマット。
ダサかろうが何だろうが、先生方が子どもや保護者のことを思いながら作ったものは素晴らしいし、内容が楽しいので食い入るように見てしまう。
デザインがはっきり分かりやすいし、これでいいじゃないかと思う。
これがよくわからない英語だったり、ちょっと細い字体だったりすると、読みにくくなる。
何がなんだかわからないという感じになってしまうかもしれない。
そう考えると、人類は「ダサさ」から逃げられないのかもしれない。
逃れられないというか、最終的にはわかりやすい方に行き着くのではないだろうか。
それに抗おうとする、スタイリッシュさの方が無謀な挑戦なのだ。
改めて考えると、東京のオフィスビル群なんて分かりにくいったらありゃしない。
看板も何も出ていなくて、ガラス張りでキレイでどれも同じようなビルが立ち並んでいる。
人はそこをGoogleマップを見ながら一生懸命 歩いたり、地上ではなくて地下通路にある地図をよく見たりしなければいけない。
慣れてしまっていたらどうってこないけれども、新宿も汐留も大手町も初見の人からしたら意味のわからない場所だろう。
目印になりそうなものは何もなく、コンビニすらオフィスビルの中に入ってしまっているからよく見ないと見えない。
それよりも駅の改札を出たらすぐにデカデカと看板が立っていて、看板の通りに進んでいけばたどり着くような場所の方が、人は行動しやすいと思う。
そう、改札だって、都会の駅は改札がいくつもあるよくわからない。
便利さを追求した結果、逆に意味がわからなくなるというようなところなんだけれども、中央東口と東口とか、南口と新南口とか、よく考えたら初見殺しだろう。
慣れてしまえば平気になるし、余計な文字がないおしゃれな街というのは心地よくなってきたりもする。
看板とかみたいな無駄な情報がなくて、コンクリートとガラスしかない街。
なんなら電線もない。
これからも、人は見慣れない地にはGoogleマップを用いて歩くことになるだろう。
もしかしたら違うアプリが出てくるかもしれないし、そもそも 街を歩くということがなくなる未来がやってくるかもしれないけど。
その時に、都市部は、そして地方はどんな感じになっているのだろうか?
あのダサいけれども目立ちまくる看板はどうなっているのだろうか?
なんかそんな未来のことを考えると、今話題になっている、院長の顔写真が入ったクソでかいかつクソダサい看板も愛しくなってくるのかもしれない。

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*1:帰りの新幹線は越後湯沢駅の次が大宮駅という超特急だったんですよ。行きは逆に熊谷と上毛高原に停車していたから20分以上差があった。