こんにちは、ドクダミ淑子です。
いろんなところで書いていると思うけれども私は極度の面倒くさがり。
爪切りだって料理だって面倒臭い。
家事全般だいたい面倒臭い。
もう何もかも、「やらなければいけない」というだけで面倒臭いと思ってしまうタイプなのです。
でも、そんな私だからこそ、心がけていることがあります。
それは、「やる気がなくても出来ることしかやらない」ということ。
「やる気がない自分」を標準に置く
人はどうしても、「やる気がある時の自分」を基準にしてしまいがちです。
やる気がある時は「これができる、あれができる」って感じになるけれども、やる気がない時っていうのは、それができない状態になります。
「やろうと思っているのにできない」というのは、人にとってプレッシャーになる。
プレッシャーになって「やるべきことを出来ない自分なんてダメだ」みたいに心を蝕んでいくことだってあるかもしれない。
だからこそ私はどんな状態でもできるくらいのことを標準とするのが良いだろうと思っています。
その上で、やる気がある時はもっとやればいい。
「やる気がある自分」を標準にするのではなく、「やる気がない自分」を標準にして、その中で出来ることをやって行く、というのが私のモットーです。
やる気がなくても、ジムには行く
私はジムについても全く同じことを考えていて。
ジムってどうしても行くのにハードルが高くなってしまいませんか?
行ったら行ったで楽しめるし、がっつり運動するんだけども、その「ジムに行ったらがっつり運動しなければいけない」というのが、また別のプレッシャーになってしまうのではないかと思う。
これは住んでいるエリアとかにもやるかもしれないけれども、私はとにかく、細く長く、内容は軽めでもいいから、頻度を上げて運動していく方が大事なんじゃないかなと思っている。
だから、「やる気がなくてもなんとなくでジムに行くし、何かのついでに外に出るから10分でもいいや!って気持ちで行く」って感じにしている。
そして結果的にはなんだかんだで30分くらいは運動している。
でも、それでいいんじゃないかなと思う。
やる気がなくても、行ったらなんとかなるものなのだ。
やる気に左右されずに生きていく
私は、「やる気」という、出るか出ないか不確定なものに、毎日の暮らしのクオリティが左右されるということが、危ういと思っています。
「やる気が出なくて出来なかった」というのは、負の経験として蓄積されていくから、出来るだけ毎日小さな成功体験を積んでいきたい。
まぁそこまで「出来なかった」を気にしないという手もあるんだけれども、やっぱり自分の中で「ここまでやろう」というラインを越えられなかったということは、何かしらネガティブな記憶になる。
「できなくてもいいや」って気持ちで散らかった状態でも平気な人なら、まぁそれはそれでいいのかなとも思うけれども。
まぁとにかく、「やる気を出す」というところにカロリーを使うのではなく、「やる気がなくてもどうにかなるようにする」の方が大事かなぁ、と私は思うのです。
こちらもどうぞ