
こんにちは、ドクダミ淑子です。
子育てをしながら、「これは過去の自分との答え合わせだな」と思うことがあります。
「自分が子どもだった時の、母の立場ってこうだったんだな」とか、あの時母はこう考えていたのかもしれないな」とか。
母とはあまりうまく行っていなかった
まぁ正直なところ、私と母は上手く嚙み合っていなかったんですけれどもね。
母は私に「普通の子になって欲しい」と言っていて、ただ私はその「普通」っていうのになることができなかった。
トイレのフタを締めるとか、トイレの電気を消すとか、部屋の片づけをするとか、必要以上に本を買いこまないとか・・・
勉強についても母は「頑張り過ぎないで欲しい」と言っていたけれども、私は順位が上がるのが楽しくて猛勉強していて顔をしかめていたし、就職が上手く行かない時に「大学院に行っちゃおっかな〜東大も院なら入りやすいし教授も推薦してくれるって言ってたしぃ〜」とか思っていたら、「女で院卒はお嫁に行けなくなる」と猛反対されたし。
まぁそんな感じで母の思う「普通」と私の実態はかけ離れていて、私はずっと「頭は良いけどだらしなくて変な子」という街道を歩き続けてきた。
そんなに距離を詰められましても
そんな感じでいつもトイレの蓋についてガミガミ言われていたんだけど、母は出かけると、私の腕を組みたがった。
ある時ちらっと聞いたけど、どうやらうちの母は、「娘と腕を組んで買い物に行くのが夢だった」そうで。
ただ、多感な時期の、普段あれこれ言われることに嫌気がさしている私は「知るかよ」「突然ベタベタしてきて気持ちが悪い」と拒否していた。
まぁ、この辺はもう少し私も「ママ♥」とか出来ればよかったのかもしれないけど、そこまで大人になれなかったな。
普段の「普通の子になって欲しい」も相まって、「自分の理想を押し付けんなクソが」と思っていた。
まぁこの辺は、大人になってからカフェでケーキセットを食べながらおしゃべりするとか、そういうのをたまにやるようにして、母に親孝行をするようになってきたけど。
自分のことを理解してほしい人
そんなこんなで、ケーキセットでおしゃべりをするようになってすごく思ったのは、「この人は自分のことを理解してもらいたいんだな」ということ。
逆に「娘のことを理解しよう」という気持ちがほぼないんだなと言うこと。
私は、母に自分のことを理解してもらっている気がしなかったんだけど、その理由がなんとなくわかった。
母自身が「自分のことを理解してもらいたい」という気持ちがめちゃくちゃに強いのだ。
もしかしたら娘のことを理解しようとか思っているのかもしれないけど、それよりも強く、「私のことわかって!」が出てしまう。
時々、実家に帰ったり、ビデオ通話で話をしたりするのだけれども、いつも母の話を私が聞いている。
パート先でこういうお客さんがいてとか、同僚が困った人だとか、誰が風邪を引いて休むことになって代わりに誰が出てきたかとか・・・要するに、どうでもいい話だ。
少なくとも、私にとっては。
でも、「どうでもいい」と思いつつもちゃんと真面目に聞いているから、母のパート先にどんな人がいるのか覚えてしまったし、名前を聞くだけで「ああ、よく遅刻してくる人ね」と出てくるようになってしまった。
母はそうやって、久しぶりに会っても「最近どうなの?」といった広い話を私に問いかけることはなく、ただただ半径5メートルの話題を振りまいている。
私は別にそれでもいいけど、さすがに「義理の」がつく人達の前ではそれを控えるようには言っている。
「話をする人」と「話を聞く人」って、役割が決まってしまうと、そのまま固定化されてしまうんだな・・・なんて、時々思う。
そう、「話をしたい人」っていうのは、その気持ちが強ければ強いほど、相手の話を聞く気がなくなると思うのだ。
誰かと面と向かっている=自分が話をする時間、みたいに思っているのではないか?と。
だから、自分が話をしていないとその時間の意味がなくてつまらない、みたいになってない?と思うことがある。
子供時代の気持ちを忘れずに
少し話はそれたけど、とにかくそんな感じで「私が!私が!」みたいなおしゃべりな母がいるので、私は子どもの話をなるべく遮らずに聞こうということは心に決めている。
まぁ、決めていても守れない時も時々あるんだけどね。
あとは、自分の苦労とかを子どもに伝えて、「私、これだけ頑張っているの!褒めて!」みたいなのもやらないようにしたいなと思っている。
子どもからしたらそういうのって面倒くさいだけだからさ・・・
話を聞いて欲しいっていうのは誰もが思うことだけれども、それも出来るだけ子どもメインで、少なくとも半々くらいにしたいよねって思うのです。
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