こんにちは、ドクダミ淑子です。
ネットの海を徘徊していると、「言語化」という言葉を多く見かけます。
たとえば、はあちゅうさんが呪詛垂れ流しnoteを更新していた時「言語化ありがとうございます」みたいな感じでフォロワーさんから感謝のコメントもらいましたぁ!と出てくるなどなど。
私もブログの読者さんから「モヤモヤしていたことが言語化されていてスッキリした」とコメントをいただくこともあります。
そういう「言語化ありがとう」の言葉ではあちゅうさんは調子に乗ってしまったのか、「私、言語化、できる。私、言語化、できる、すごい」と言語化アピールを始めているようです。*1
言語化かぁ・・・私もどちらかというと、自分の気持ちを言葉にまとめて整理するのが好きなタイプではあるんだけれども、そうやって「言語化」することが素晴らしいものではないと思っています。
今回は、そんな「言語化」の話を。
言語化すると、矮小化される
私は、言語化するのは他の人よりも得意なのかもしれないけれども、必ずしもそれが「良い」ことだとは思っていません。
自分の中での課題点・問題点をまとめて今後に生かすという面では良いのかもしれないけれども、そうやっていると、色々なものが「矮小化される」と思っている。
特に、本来ならば言語で表現するのではない、感覚的なものとかは。
たとえば美味しいものを食べて「美味しい~!」と思う、その美味しさを伝えるために言葉は必要かもしれないけど、「美味しい」という気持ちは言葉にすることで研ぎ澄まされるものではない。
美しいものや感動することも同じく。
また別のたとえをするけど、私はhydeさんの歌声が好きすぎるんだけど、聴くと身体中の何かが騒ぎ出す。
でも、それをあえて言葉にして表現する必要はあるのかな?と思う。
逆に、言葉にするのが難しい、感覚でしか表せないものこそが「尊さ」なのではないかと思う。
「推しが尊い」とか、稚拙な言葉としてバカにされているのを目にしたことがあるけれども、その言葉に出来ないものを言葉に出来ないまま表現しておくというのはアリなのだと思う。
言語化よりも「感じる」を
言語化すること」を目的にすると、言語化が出来たことによって、物事をシンプルに分かりやすく噛み砕いて理解することだけに縛られてしまうような気がする。
感性って、そんなに簡単に言葉に出来るものじゃないのよ。
だからこそ、言葉で表現する力を磨くとともに、逆に言語化スイッチをオフにして、言葉ではなく感覚で感じる経験も積み重ねて行くべきだと思う。
他人に伝えるためには、言葉がどうしても必要になるけれども、自分の心を豊かにするのは言葉が全てじゃない。
子どもが「おもしろかった!」という言葉には、言葉に表せない様々な感情が混ざっていると思うのだ。
私はこんなブログをちまちま書いているし、本を読むのは大好きなんだけど、だからといって言語化が全てだとは思わないんだよな・・・
ちなみに、課題や問題を洗い出して、前に進むためには「言語化」は大事だとは思う。
悩み、そして打ち手には、きちんと言葉にして解決までの道筋を作ることが大事だから。
でも、それと違って、嬉しい・楽しい・美味しい・綺麗だ・感動した・好きだみたいな、心揺さぶるものについては、言語化することだけが大切なわけじゃない。
言語に出来るものしか感動として受け取らないってなったら本末転倒だし。
そう思うと、「この日本酒はまろやかでふくよかでうんちゃらかんちゃら・・・」よりも、「美味しかった!」で良いんじゃないかなぁ、と私は思う。
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*1:「ようです」、と書いているのは、最近ウォッチャー活動がちゃんと出来ていなくて、別の方の情報をいただいていることも多いからです。