こんにちは、ドクダミ淑子です。
読書とは、娯楽だと思っています。
時々「自分を高めるためのうんちゃらかんちゃら」みたいなことを言う人がいるけれども、「自分を高めた気になる」という快感を得ている娯楽だと思う。
楽しいから読むし、楽しくないなら読まない。
そのくらいの感覚でいるんだけど、ある時、「読書は自分の糧になっているのかもしれないな」なんて思ったので、今回はその話を。
考えるときの材料になる
ある時、Twitter(現X)で、「他人と自分との区別がつかない人は」みたいな話題が流れてきました。
「自分と他人との区別かぁ・・・」と思って、女同士の付き合いで知らず知らずのうちに距離を置かれてしまうあの方がちらりと頭の片隅に出てきたのですが、彼女じゃなくて別の例で考えようと思った時にふと思い浮かんできたのが、『ナイルパーチの女子会』の主人公でした。
あの話は突拍子もない思考回路の主人公が出てきて笑っちゃうくらいなんだけど、それが多少デフォルメされているとしても、「自分と他人の区別がつかない人間」の例なのかもしれないなぁ、なんて思ったのです。
彼女は、自分の思い描くストーリーになるように事を進めようとして、相手がそのストーリーに沿わないと怒り狂うんだけど、あれも一種の「区別がつかない」なのかもしれないなと。
他人の気持ちや行動はすべて自分の想定通りであるべきで、それが正しくて、自分の想定と違うことをするのは誤っていることだからすぐに直さなければならない・・・みたいな。
そうやって考えていくと、はあちゅうさんなんかも自分と他人との区別がついていないのかもしれないな。
というか、他人は全てが自分の人生を彩るパーツくらいにしか考えていなかった気がする。
元旦那さんも結婚して子供が生まれたら生まれ変わって家に帰ってくる家庭第一のパパになると思っていたんだもんな。
・・・と結局、話は、はあちゅうさんに戻る。
読書はどんな形でも「糧」になる
とはいえ、私は面白いから本を読むので、これを機に「役立つ読書をする!」とはならない。
相変わらず「あまり役に立たなそう」なミステリー小説を読んでいるし。
ただ、その中でも何かしら引っかかることや、登場人物のクセとかを読んでいると、何かが自分の中で蓄積されていっているのかもしれない。
でもそれは決して、読書だけで培われるものではなく、映画や漫画などのメディアでもそうだし、他人との会話でもそうだし、何かしら外の世界に触れることで蓄積されるものだと思う。
怖いのが、「自分のことを100%わかってくれる人達と、ぶつかり合うことなく穏やかに日々だけが過ぎていく」ことの方なんじゃないか・・・なんて思う。
心にぐさっと刺さるトゲ。
それは決して悪いことだけではない気がする。
「好きではない作家」にも触れていきたいけど
そう考えると、自分の好きな作家の外側、あまり読まない作家やジャンルにもチャレンジして行きたいなと思うけれども、限られた時間で楽しみたいので既に読んだことのある作家の続編に手を出してしまう。
ジレンマ。
一番良いのは、「今まで読んだことがない作家に触れて、それを好きになってどんどん読み進んでいく」なんだけど、そのノッてくる状態になるまで読み進めるのがしんどかったり、最後まで読んでも「好きじゃなかった」ってなるのもしんどかったりする。
私はなんだかんだで雑食なので、よっぽど苦手じゃない限りはだいたい読み切るけど、「好きじゃない」「脳が受け付けない」まま、スルスルと言葉だけが目を滑っていくのが果たして良い読書なのだろうか?と思うと、「別の読んだほうがよくね?」と現実主義者の私がツッコミを入れてくる。
そして、「チャレンジ枠」で買った本がどんどん積まれていく・・・
はぁ・・・とため息を吐きながら、今日もその中の1冊をちびちびと読み進めていくのです。
ちなみに今読んでいるのは、『猫背の王子』という小説の続編で、これはフォロワーさんに紹介してもらったのがきっかけだった。
知らない作家のもので最初はなかなか進まなかったけど、続編(3作目)まで読んでいるのだから、やっぱり知らない世界との接点を持つことは大事だなと思う。
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