こんにちは、ドクダミ淑子です。
長らく積読状態になっていたこちらの本を、やっとこさ読み終えました。
どんな内容なの?
公式サイトによると、こんな内容です。
新しいのに懐かしくて、なぜだか泣ける。気鋭の情報学者が描き出す人類の未来とは
哲学、デザイン、アート、情報学と、自由に越境してきた気鋭の研究者が、娘の出産に立ち会った。そのとき自分の死が「予祝」された気がした。この感覚は一体何なのか。その瞬間、豊かな思索が広がっていく。わたしたちは生まれ落ちたあと、世界とどのように関係をむすぶのだろう――。東京発、フランスを経由してモンゴルへ、人工知能から糠床まで。未知なる土地を旅するように思考した軌跡。
難しいテーマなのに読みやすく、学術的な話もありながら日常の話でもあり、なんだか不思議なエッセイなのです。
きっかけは、ブックカフェ
この本は、子どもが生まれたばかりの頃にちょこちょこ通っていたブックカフェに置いてあったものでした。
まだこの本が「新作」ないしは「準新作」くらいだった頃に買って、前半だけは読んでそのままになっていた。
うちの子はまとめて寝るタイプだったので、子どもが生まれて半年くらいはなんだかんだでたくさん本を読めたけど、動くようになって、歩くようになったらそうもいかなくなった、というのが積読になっていた由来なんだけど、理由はもう1つあるかもしれません。
「他人に薦められて読んだ」というジャンルの本だから。
どうやら私は、自分の範疇の中にあるものはスラスラ読めて、その外にあるものを読むのにはものすごく精神力と脳みその処理能力が必要になるらしいのです。
それは加齢によるものなのか、自分の興味のなさによるものなのかはわからないけれども、とにかくそういう意味で、乗ってくるまで時間がかかる本でした。
最近、少しだけ心に余裕が出てきて、そういうジャンルの本を、時間をかけて読めるようになってきた気がします。
バイリンガルの感覚を自分で分析する
最後にリンクを貼ってある『絶対音感』という本(これも同じブックカフェで買った)を読みながら、私は私の絶対音感について改めて考えたことがあった。
自分が当たり前に持っていた感覚を、他人の言葉と学術的な研究とに照らし合わせて「ああ、この感覚はそういう脳のプロセスで出来ているのか」と繋がっていく。
私なんかは、誰かの書いた本を読んで、「ほぇ~、そう言われればそんな感覚なのかもしれない」と気づいたりするんだけど、彼の場合は「この得体の知れない感覚は果たしてどこから来るのだろう?」と自分で気づいて、色々と文献に当たったりしながら自分で答えを見出だしていく・・・
「頭の良い人は自分の感覚はさえも言語化できるんだなぁ」と、頭の悪そうな感想が出てきた。
「バイリンガル」「吃音」など、多くの人が「その人しか持てない独特な感覚」みたいな言葉で有耶無耶にしそうなことと、きちんと向き合っていく・・・その姿勢に私はしびれた。
「いいエッセイ」を読んだ
内容としては「エッセイ」なんだけど、多くの人がイメージするような「日常の風景を切り取ったエッセイ」ではない。
きっかけは、娘の誕生やバイリンガル・トリリンガル環境で自分がどう言葉を覚えていったかとか、自分の吃音や作ったプロダクトなどなんだけど、そこから話が広がり、文化人類学とテクノロジーの融合みたいな話になってくる。
そういう「エッセイ」も楽しいなぁと思いながら読んだ。
「学問」というと、人類の発展に寄与するかどうかみたいな話になりがちだけど、きっかけとしては、自分の「不」だったり「気付き」だったりするのだなぁと改めて思った。
ただ、そこから広げていくためには、「自分目線」だけじゃ足りないんだけど。
正直なところ、文化人類学のくだりとかを読み流してしまったり、自分の中で完全に理解できたと思えなかった部分もあるので、これは5年後くらいにじっくりと再読したいなと思っています。*1
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*1:本書のサブタイトルである「わかりあえなさを~」の部分に全然触れられてなかったのは、自分のなかで消化しきれなかったからだと思う。そういう意味でもまた読み直したいと思っている。