こんにちは、ドクダミ淑子です。
3月11日分(実際には翌日に書いている)の記事・・・となると、なんとなく、「あの日」について意識してしまう。
といっても、もう6年目になるこのブログでは何度か書いていて、私の中ではこういうブログを読んで思い出す・・・程度になっている。
でも、それでいいと思う。
その「記憶の風化」みたいなのは、自分が誰かを亡くしたという意味で「当事者」ではないから仕方ないと思っているし、人間生きているとどんどん過去のことは忘れてしまうものだと思う。
ただ、子どもが生まれて少しだけ変わったことがある。
「もしも、子どもが死んでしまったら」ということを想像するようになったということだ。
子どもが生まれて想像の範囲が広がった
今、子どもは平日保育園に行っているけれども、そこから帰ってこなかったら?
将来、小学校へ行ってとか、もっと大きくなって旅行に行ってとかで、そのまま帰ってこなかったら?
事件・事故・天災に巻き込まれてしまったら・・・
・・・というのが、東日本大震災の被災地では、どこもかしこも起こっていたのだ、と思うと、恐ろしくなる。
いや、昔から恐ろしいと思っていたけれども、それは「自分がそういう目に遭う」という視点が主で、自分は無事でも子どもがそういう目に遭う・・・なんてことは、子どもが出来るまであまり想像できていなかった。
子どもが出来て、想像力の乏しい私の想像できる範囲が少し広がったということなのだろう、きっと。
ピンポイントで「約束」する
今後の私は、子どもを守る、もしくは自分がいなくても子どもが自分自身を守れるように、しっかり事前に教育をしておく、というのが使命になってくるのだろうな・・・ということを、前日くらいからモヤモヤと考えていた。
そんな時、社用車を運転している時に付けていたラジオ番組で、こんなことを言っていた。
「もしも災害で家族がバラバラになったら、どの場所のどの木の下で何時から何時に集まる」決めている。
子どもは時間も決めておかないと、もしトイレに行きたくても「親が来るかもしれない」と思ってずっと待っていてしまうから、時間を決める。
「その日会えなくても、また次の日に来るかもしれない。まずは自分のことを大事にして。生きていればきっと会えるから」と伝えている。
・・・といった趣旨の内容だった。
そのためには、お互いちゃんと生き抜かなければいけないんだろうけど、ここまでピンポイントで約束していたら、きっと家族が迎えに来ない時も、悲しいけれども諦めがつくのかもしれないな、とも思った。
人は「もしかしたら」に期待してしまう生き物だから、その期待する範囲をできるだけ小さくすることも、この方法の正しさだなと思った。
うちの子はまだそういう話をする段階ではないけれども、もう少し大きくなったら、ちゃんとこういう話をしておこう、とラジオを聞きながら思った。
人はいつか死ぬのだけれども
私の母親はとても心配症で、それに対して娘の私はわりと色々と大胆でボケーっとしていたので、私が1人で海外へ行くなんて時、母親はわりと大騒ぎしていた。
昔は子どもの立場から「そんなに心配しなくてもいいのに」と思っていたけれども、今はなんとなくその気持ちはわかる。
自分の目の届かない、自分の守れない範囲に、子どもが行ってしまうことは怖いし、その時に「もしも」のことが起こったらと思うと、行くのを止めたくなる気持ちもわかる。
でも、「用心すること」「備えること」は重要なんだけど、たとえそうしたとしても「何かあった時に回避できるかどうか」というのは、100%できるというわけではない。
人間として、地球に、日本に住まわせてもらっていることも「運」だし、災害が起こった時にどこにいて何をしていて、それで生き残れるかも「運」なのだ。
そして、今生きている人間も「運」が良かったとして、100%がいつかは何かの理由で、死ぬ。
ただそれが、できるだけ理不尽な理由ではなく、できるだけ心の準備が出来ないものではなく、周りを悲しませないようなものであることを祈るしかない。
子どもにおいては、全力で守らねばならぬし、「災害時に対する教育」もしっかりしておかねばならぬ。
私自身は、その「もしも」「いつか」までは、できるだけ楽しく生きよう。
・・・そんなことを、改めて思う、3月11日だった。
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