こんにちは、ドクダミ淑子です。
時々、街の空気にやられることがあります。
たとえば、こんな風景。
午前9時30分の秋葉原。
駅前のピカピカのオフィスビルを抜けると雑多な雰囲気のする店が増えてくる。
皆ぞろぞろと総武線の線路沿いのあの道を歩いて、お茶の水方面のどこかへ向かっていく。
私はそこから少しそれて、末広町方面へ歩く。
平日朝のドンキには何を売っているのかわからないけど行列があって、その横ではごみ収集車やら道路工事の仕事やらで「現業」に勤しむ人達がいる。
私はアポの時刻よりも少し早くついたからと、マクドナルドに入り、ソーセージマフィンのセットを頼むと、2階席にはたくさんの1人客がいて・・・
・・・すべて、なんてことのない風景なんだけど、冬のせいなのか、久しぶりの外出*1だからなのか、なぜかこの日はなんだか全てが、こたえた。
考えすぎるとキリがない
色々な人が色々な目的で街に出ていて、私はまもなくこの辺で新たに社員を募集したい企業と商談をするんだけど。
なぜこんなに世の中にはたくさんのお店があり会社があるのに、誰もが自分の100%満足の行く人生を歩むことができないのだろうか?
そんな、どうしようもないし考えても仕方ない課題にぶつかって、勝手に絶望するのだ。
誰もが幸せでいたくて行動するのに、なぜかそうなれない。
結果としてゼロサムゲームで幸せを奪い合っているかのような世界。
その中で、自分が何ができるのだろうか?
都会の雑踏に立つ時、時々そんなことを考える。
仕事に追われていた方が楽なんだよな
でも、なんだかんだでお客さんと話をすると私は仕事モードに戻り、会社に戻って見積書やら契約書やらを作ったり送ったり、求人票を作ったりといった「業務」が生まれるので、それに追われる。
その間のぽっかりと空いた時間、特に訪問する時の空き時間にぽっと、さっきみたいな余計なことを考える。
果たして「余計なこと」なのか、考えるべきことなのか、よくわからないけど、ふとそういうこともモヤモヤと思うことがある。
「暇だと、余計なことを考えるのだ。ちゃんと仕事せい!」とは思うけど、そうやって業務に集中すればするほど、ふと空いた時間で「私には何ができるのだろう」と考えたり、そうかと思ったら「私は誰かを不幸にする仕事をしているのではないか?」なんて考えることもある。
寮完備・日給1万円
ああ、そんなことを考えるのは、きっと先日初めて打ち合わせをした企業が、寮完備で日給1万円、とにかく手ぶらで来て良いよみたいな企業だったからかもしれない。
ざっくり言うと最新の日雇い労働者みたいな業態で、手ぶらで入社できて、寮にはWi-Fi完備でなんとスマホも貸与してくれて、行き先は当日か前日に知らされる日給1万円の現場作業員、仕事は17時で終わって自由時間にはパチンコ行ったりしてリフレッシュ!みたいな会社だった。
普段私はこういう系統の会社には近寄らないようにしているんだけど、問い合わせのあった企業には持ち回りで担当しなきゃいけなくて、久しぶりに当たってしまった。
だから、秋葉原の風景を見て、意味もなく、無駄に絶望的な何かを感じてしまったのかもしれない。
幸せとは人それぞれ
ただ、日給1万円・Wi-Fi付寮完備の仕事に就く人が必ずしも不幸ではない。
むしろ、ある種の人にとってはとても快適で便利で助かる制度のある会社なのかもしれない。
そうやって、自分の尺度で幸福/不幸をはかってはいけないと頭ではわかっていながらも、そう思うと「じゃあ幸せって何なの?」というこれまた答えのない問いにズブズブとはまってしまう。
社会と関わるということは
「社会と関わる」というと、なんだかプラスの意味がある気がするけれども、実際はこういう、自分が今まで知らなかった社会の一面を見てしまうことがある。
そして、そういう一面があるからこそ、表向きはスムーズに社会が回っているということにも気づいてしまう。
その中で無駄に絶望しないためには、自分の中で大切にすることを貫く強さみたいなものが必要で、そのためには「軸」みたいなものがあった方がいいんだろうなと思う。
私には普段はその「軸」みたいなものが強固にあるから、こうやってモヤモヤすることは少ないんだけど、何かがワッと重なって、少しセンチメンタルな気持ちになった。
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*1:というのは、はあちゅうさん並みの嘘。Web会議が増えたけど、週1~2くらいは外出しているし、もともとフル出社である。