ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

街にあるクリスマスツリーから出る思いやりが心に染みる


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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

クリスマスだなぁ・・・と、毎日子どもと保育園の帰りにうろうろしていて、思います。

 

 

街のあちこちにあるツリーが嬉しい

改めて街を見回すと、色々なところにクリスマスツリーが飾ってあることに気づく。

駅、ショッピングモール、オフィスビル、お店、民家の外から見える位置・・・大きいものから小さいもの、豪華なものからシンプルなものまで、今まであまり意識していなかったけれども、結構な数のツリーを見ることが出来る。

 

なんだかそれって、素敵なことだよなぁと思う。

ショッピングモールなんかは、購買意欲をかき立てるって意図もあるのもしれないけれども。

でもそれも含めて、季節を感じる装飾をしようとか、誰かが道行く他の誰かを楽しませようとする気持ちがあって飾っているのだろうな、と思うと嬉しくなる。

なんというか、そういう人の善意みたいなものが集まって、街が華やかになっているのが、染みるのだ。

 

 

「善意」に敏感になる

クリスマスツリーだけに限った話ではないんだけれども、最近は「善意」というものが以前よりも染みるようになってきた気がする。

子どもと歩いていると、私も注意はしているけれども、やっぱり人に迷惑をかけることが沢山ある。

突然床に寝転がったり、思ったのと逆方向に突然走りだしたり、スーパーのカゴに執着して突然レジかごの整理整頓担当になったり・・・とにかく、周りの人の行動の妨げになってしまう。

それを「道の真ん中で寝ころぶな」というごもっともな声をいただくこともあれば、「あらまぁ、可愛いわねぇ」と言ってもらえることもあって、どちらも一意見なんだけれども、やっぱり後者のように言ってもらえるとありがたい。

 

そんな感じで、子どもと一緒に歩いていると、どうしても「迷惑をかけてしまう」というプレッシャー(みたいなもの)があって、それをカバーしてくれる「善意」みたいなものが染みるのだ。

・・・って、ツリーの話とはあまり関係ないけれども。

 

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クリスマスツリーが家にないからなのかもしれない

もしかしたら、我が家にクリスマスツリーが無いから、街にあるツリーのありがたみを実感するのかもしれない。

結婚してからも特にクリスマスの飾りつけをすることもなく、今までやってきてしまった。

子どもが生まれてから「買おうかな」と思ったけれども、「危ないから」という理由でまだ買っていない(たしかに、色々なものを触っているけれども、端っこは割と切りっぱなしの針金だったりもするし、重くても軽くても倒れたら危ないだろうなとは思う)。

 

買いたいんだけれども買っていないから、余計に気になるのかもしれない。

 

たとえるなら、ペットが飼えないから、外で散歩している犬をありがたがるように、外でのツリーをありがたがっている、みたいな。

 

でも、屋外にあるツリーって、なんか特別な感じがするよね。

ひんやりした空気と、夏よりも暗く感じる空と、それと対照的にキラキラ光るイルミネーション。

そして、屋外のものは自宅用よりも大きい物が多くて、「私はツリーです」って感じの圧がある。

 

 

クリスマスが終わるのが惜しい

道端にあるクリスマスツリーを誰かが整備していて、それを誰もイタズラしたりなんかせずに楽しんでいる。

・・・そんな人の善意が染みるからなのか、クリスマスが終わってしまうのが惜しくてたまらない。

もしかしたら、今までの人生で1番、クリスマスが終わるのが惜しいかもしれない。

 

イルミネーションは冬の間続いているところも多そうだから、ツリーがなくなっても、キラキラした街を歩くことは出来るかもしれないけど、こうやって、街の色々なところにキラキラしたツリーがある風景が、ずっと続いてくれたらいいのに・・・なんて寂しく思ってしまう。

 

 

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