こんにちは、ドクダミ淑子です。
少し前に読んだ、この文章がずっと頭の中で引っ掛かっていました。
不快に思うことが不快だと言えない苦しさ
ざっくり書くと、こんな感じ。
- 子どもが嫌いだが、ずっとその気持ちを封じ込めていた
- ピコピコ鳴る靴の音が不快でその場を離れざるを得なかった
- 子供が好きならよかったけど、子供がいる人生を想像するだけで気持ちが悪いし、その気持ちを吐き出せないことがつらい
私は子供が嫌いではないし、普段は騒ぐ人がいてもあまり不快にはならないタイプだ。
でも、時々近所のスーパーのレコーダーから流れてくる声が頭の中で響いてしまうことがある。
「いらっしゃいませ、いらっしゃいませ」
「お客様、お客様~」
「本日は、ポイント10倍デー、衝撃のポイント10倍デーです」
「マグロが大変お得!」
「今回ご紹介するのは、ギョーザ!ギョーザ!ギョーザ!味の素の冷凍ギョーザでございます」
「なんと、よりどり2個で398円!」
・・・同時にレコーダーから流れるちょっと陽気な男性の声が頭の中でぐわんぐわん回って、不快センサーが反応してしまうことがある。
疲れている時とか、原因はわからないけど神経が過敏になっている時とか。
だから、彼女が不快に思う気持ちは、なんとなく理解できる。
ただ、その不快に思う対象が、スーパーでエンドレスリピートで流れるオッサンの声ではなく、「本来ならば可愛いと思わねばならないし、大多数が可愛いと思っている子供の声」だから、苦しいというのもあるのだろう。
街の調和を乱す存在なのは間違いない
なぜ私がこの文章が引っ掛かっているかというと、現在進行形で私と子どもの存在がこういう人の不快指数を上げるからで、それに悩んでいるからなのです。
我が家の1歳9ヶ月児は、キャッキャ言いながら突然走り出すし、真っ直ぐ走るかと思いきや突然曲がるし、急に止まるし、寝っ転がるし・・・
もちろんぶつからないように方向転換させたり止めたり手を引っ張ったりするし、「手を繋ごうね」「寝ないでくださいよ」とか声をかけるんだけど、全部が全部防ぎきれるわけでもなく、やっぱり他の人の足を止めたりしてしまうんだよな。
多くの人は、「あらまぁ」みたいな感じで笑顔で避けてくれるけど、時々「邪魔だ」と言われることもある。
保育園の帰りはベビーカー拒否するから、ベビーカーを押しながら子どもと手を繋いで歩かざるを得ないこともあって、めちゃくちゃ幅取ってるなと思うこともあるし、急に走り出したからベビーカーを放置して子どもをつかまえに行くことも何度かあった。
とにかく、邪魔だろうなと思っている。
でも、じゃあどうしよう?と思っても、どうしようもないのだ。
ベビーカーは保育園からの帰りは邪魔なんだけど、朝に保育園へ行く時は必須アイテムだし、子どもが急に走り出すのもなかなか防ぎきれない。
出来るだけ周りに迷惑をかけないように、少しずつ普通に手を繋いで歩けるようにと声をかけて、とやっているけど、すぐには改善されない。
きっと、匿名ダイアリーの主(通称:増田)が私たち母子の近くにいたら、心の中のジャリジャリはとんでもないことになっているだろう。
それを想像すると、申し訳なく思う。
「調和」ってなんだ?
・・・とは思うんだけど、その「調和」ってなんだろう?なんて考えてしまう。
誰もが静かに、真っ直ぐ歩いている風景が「調和」なのかというと、それもちょっと違う気もしてしまうのだ。
真っ直ぐ歩く人もいるし、歩かない子供もいて、杖をついてゆっくり歩く人も、大声で叫びながら歩く(おそらく知的障害があるだろう)人も、手を繋いで歩くカップルも、団体で歩く人達もいる・・・という風に、色々な人がいることが普通だし、色々な人がみんな同じ場に存在していることが「調和」なのではないかと思うのだ。
みんな違って、みんないいのだ。
「私とあなたは違う」を受け入れる
ただ、そういうイレギュラーな人がいることが許せない人だっているだろう。
冒頭の文章を読んでいると、増田は「~でないといけない」という気持ちが強い人なのだろうなと思う。
- 子供は可愛いと思わなければいけない
- 公共の場所や大勢の人がいる場所では音を立ててはいけない
- 子供が嫌いな気持ちは隠さなければいけない
「邪魔だ」「うるさい」「親がどうにかしろ」と言えてしまう人の方が、きっとこの人よりも楽なんだろうなと思う。
言われた方は傷つくかもしれないけれども、たしかに邪魔になっているんだから、事実だし。
子供が好きな人も嫌いな人もいるし、真っ直ぐ歩く人も歩かない(歩けない)人もいる。
そういう人が全部同じ世界にいるってことを、なんとか受け入れて、時には文句を言いつつも上手く同じ世界で生きていく・・・しかないのだろうな、という結論に至る。
「そういう考えの人もいるよね~」「そういう意見もあるよね~」とか、「自分と違う考えだけど、それも1つの考え方だよね」みたいな緩さを認められない!ってなりがちな世の中だなぁと思う時もある。
そういう「違い」を「まあ、自分と他人は違うからなぁ、そういうもんだよね」と受け入れることが、色々な人がいる世の中で生きていくためには必要だろう。
昔から「変わった子」と言われ続けていて、もうそれを受け入れながら(受け流しながら)生きてきた私は、そう思う。
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