こんにちは、ドクダミ淑子です。
読書がなかなか出来ない!とぼやきつつも、通勤電車の中でちょこちょこ読むようにしています。
電子書籍も便利なんだけど、通勤で読む時は文庫本を持っていくことが多いかな。
友達からプレゼントでもらった、ティファニーブルーの文庫用ブックカバーをずっと愛用しています。
今回は、ひょんなところで出会った、こちらの一冊の感想を。
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どんな内容なの?
公式サイトによると、こんな内容です。
「絶対音感」とは音楽家に必須の能力なのか? それは音楽に何をもたらすのか――一流音楽家、科学者ら200人以上に証言を求め、驚くべき事実を明らかにする。音楽の本質を探る、ベストセラーノンフィクションの文庫決定版。「ミクロの決死隊のように音楽のすばらしさの解明に向けて船を漕ぎだした最相さんに心から感謝の拍手を送りたい。」青柳いづみこ氏(ピアニスト)解説より。
絶対音感を持つ/持たない音楽家たちに「感覚」を言語化してもらいながら、科学者へもアプローチをして、「絶対音感とは何なのか?」を明らかにしていきながら、「音楽とは何か?」まで思考を深めていく・・・といったノンフィクションです。
絶対音感について考えてみたくなった
この本に出会ったとき、ふと「自分の絶対音感について考えてみようかな」と思いました。
ここでも書いたけれども、私は絶対音感の持ち主です。
もう、耳がそうなっていて30年以上それで生きているので、今更どうのこうのってことはないんだけど、これからの子どもの音楽教育を考える時に役に立てば、と思ったのかもしれないな。
そんなことを考えながら家に帰り、ふと思い立ってトイピアノでYOASOBIの『夜に駆ける』を初めて弾いたんだけど、あの複雑なメロディラインを全部弾けて自分でも驚いた。
これは脳の仕業だったのか
さっき挙げたブログでも書いていたんだけど、私の頭の中では、「ドミソ」という和音が鳴っている時は3人の人がそれぞれ「ド」「ミ」「ソ」と言っているように聴こえるんですね。
「ソ」の次に「ファ」が流れたら誰かが「ソファー」って喋っているように聴こえる。
・・・んだけど、この本を読んでいたら、それは私の脳がそう認識して、音と音階(ドレミファソラシド)を当てはめているだけらしい。
そうなんだ、と驚きました。
でも、そう言われてみれば、「ファ#」と「ソ♭」(同じ音)を、「ファ」と聴くことも「ソ」と聴くこともあって、それは調によって、また音の流れによって、脳が認識し分けていたのだろう、と納得できた。
あれは絶対音感のせいだったのか
そしてもう1つ、私が「他の人は簡単に出来るのに、自分には出来ないのはなぜだろう?」と思っていたことも、理由がわかりました。
それは、移調。
カラオケとかで、「今日は高い音が出なそうだからキーを下げるわ」というのが、なぜ皆そんなに簡単にできるのだろうか?と不思議だった。
この曲は、「レミファ」なのに、なぜ「ドレミ♭」ですぐに切り替えて歌えるのだろう?
私は原曲キーでしか歌えないし、予約の時も必ず原曲キーで予約を押す。
・・・これは絶対音感のデメリットの1つだと書かれていて、長年の疑問が晴れてスッキリした。
絶対音感から解放される瞬間
この本の中では、絶対音感が邪魔になるという話も出てきました。
日本と欧米では基準音が違うので、日本で音楽教育を受けてきた人が欧米で演奏すると微妙にキーが合わないとか、先ほどの移調の話とか。
そういう、自分の音感が邪魔になるのを、どうやって乗り越えてきたのか?
「訓練」という話もありましたが、その中でも私が共感できたのは、「調律できていないピアノでも音楽を楽しめた瞬間」という話でした。
そうそう、私もラルクに目覚めて、「音が合っている」ということよりも大事なものに気づいたな。
たとえば『HONEY』の最初の「ず」の音は、CDだとファじゃなくて、ミとファの間位の音(ファよりも若干低い音)なんだけど、そういうのが気にならなくなるくらい好きになれた、っていうのは私の中では大きかったと思う。
カラオケ企画への違和感
音が合っているから素晴らしいわけじゃない。
・・・そう思うと、昨今の「カラオケでキーを外さずに歌いきれるか?」みたいな番組って、何なんだろう?と思う。
あれって、絶対音感があって外さずに歌える=素晴らしい!みたいな感じじゃない?
音を外さずに歌えるかどうかと、その歌声が人々を感動させられるかどうかっていうのは、全く別問題なのに、前者こそが素晴らしい!みたいになっているようで、違和感を覚える。
そのへんは、ちょっと前にアナ雪の『Let It Go』でも議論していたな。
そういう意味では、やっぱり世間的には、「絶対音感=素晴らしいスキル」という感覚があるのだろう、と思う。
音楽を仕事にしていない私からすれば、そんなに素晴らしいものでもないし、必要不可欠ってこともないけれども。
子どもに絶対音感を付けさせたいか?
よく歌をうたう私は、自分の子どもにも歌える楽しさを味わってもらいたいとは思うんだけど、絶対音感を身に付けさせたいか?と言われると、ちょっとまだ「保留」にしておきたい。
たしかに、あれば役立つこともある。
耳コピできたり、歌も「外しているかな?」なんて不安を抱かずに歌える(音を外している時は自分で気づける)。
でも、なくても生きていけるし、「音が合っているかどうか」に縛られずに、自由に歌ったり表現したりすることが出来て、表現の幅が広がる可能性もある。
これは私自身の反省なんだけど、ずっとピアノをやっていたけれども「気持ちを込めて引く」「指の繊細な表現で音の雰囲気を変える」みたいなことが、高校生くらいまで上手く出来ずに先生に注意されまくっていたし、言っていることが理解できなかった。
きっと、「音」に縛られていたんだろうな・・・と自分では思っている。
極端な話、「正しく音が出れば、何でもいい」みたいな感じだった。
その「表現」がピアノを人間が弾くことと、コンピューターで打ち込むこととの差なのにと考えると、勿体ないことをしていたな・・・と思う。
子どもに絶対音感を身に付けさせるか?については、幼少期からトレーニングしなければ、身につかないことは科学的に検証済みのようだから、その期限はわりと迫っているのかもしれない。
確実に身につくわけではない、ということも知ったけれども、それでも「習わせるかどうか」は、もう少し自分と向き合いながら、そして何より大事な子どもの興味関心を見ながら、考えていこうかなと思う。
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