こんにちは、ドクダミ淑子です。
気付けば、これが1759回目のブログ更新になりました。
・・・って全然キリが良くもなんともないんですが、ふとした時に「あれ?何回くらい書いたのかな?」って思って調べるので、その辺は気にしないでください。
そんな記念日非重視の私*1ですが、今年の7月1日はブログ5周年で、それだけはなんとなく意識しています。
そんな感じで(どんな感じだ?)、なんだかんだでブログは続いているのですが、いまだに「書く」ということは不思議だなぁ・・・と思っていたりもします。
Twitterでこんなことが流れてきて、自分の「書くまでの脳の働き」みたいなものについて少し考えたので、今回はその話を。
認知特性の話
そんなことを考えるようになった、きっかけはこちらのツイートです。
「人の心が読める能力」について思うこと(1/2) pic.twitter.com/Lq8YuYdgcK
— ししゃもラボ🐟なん物 発売中~ (@shishamo_lab) April 22, 2022
認知特性は3種類あって、「視覚優位」「言語優位」「聴覚優位」というのがあり、生まれつき人により異なるという話でした。
これを読んだ時に、自分にいつも起こる、困ったことの理由がこれかもしれないな・・・ということがありました。
パッと全貌が浮かんで、パッと消える
過去にも書いたことがあるのですが、私は大体「こういうことを書こう」と全体図を想い描いてから、文章を書く派です。
逆に言うと「書きながら考えよう」「考えながら書こう」ということがあまり出来ません。
書いている時は「書く」に集中して、「続きを考える」を同時にすることはできない。
正確には、こうやって文章をさらさらと書けているので、書きながら何かしら考えてはいると思うけれども、それは直後に書くであろう文章のことであって、「まだ見ぬ先の世界」ではない、そんな感じ。
書き始めてからはこんな感じなのですが、その前の「何を書こうかな」の部分にさかのぼってみると・・・なんというか、言葉ではないものが、パッと浮かんでくる感じなのです。
浮かんでくるもののイメージとしては、色々な色の毛糸が絡まった塊みたいなものがぼワンと出てくる。
そして、次の瞬間には消えてしまうのです。
私はその「ボワン」と思い浮かんだ全体像なんだかコンセプトなんだかよくわからない物体を、とにかく忘れないうちに、毛糸1本でもつかんでおこうとします。
そして、はてなブログアプリを開き、タイトルだけ、もしくはその思い出せる鍵になるような単語だけ入れる。
・・・つまり、先のツイートの話だと、どうやら私は「視覚優位」らしい。
そして、それについて今度は、「言葉」で考えていくのです。
そこからは「ああ、こういうセンテンスを入れたいな」とか「書き始めはこうしようかな」とか、「この話を絡めると面白いかも」みたいな、完全に日本語で脳内会話していきます。
でも、その「素」は何かというと、言葉じゃないんですよね、私の場合。
言葉に落とし込むまでにワンクッションあるのかもしれない
私はこういう感じで文章の種が出てくるので、形にならぬようなものをきちんと捕まえられずに忘れてしまうこともたくさんあります。
以前は、それが注意欠陥なんとかかんとかなのではないか?と悩んだこともありました。
まぁ、普段の生活からもその気は多少あると思うんですけれども、単純に「言語に落とし込めていないから」なのかもしれないなぁ・・・とも思うようになったんですね。
思い起こせば新人時代、「何を言いたいのかわからない」というお叱りをよく受けていました。
「言いたい事が行ったり来たりして、結局何を言いたいのかわからない」、そんな喋り方だったようです。
自分の中では「言いたい事」があって、むしろ溢れていて、それを滔々としゃべってしまい、結局ポイントを押さえた話が出来ず、だらだらと全部伝えようとしてしまい脱線して・・・みたいな感じだったのでしょう。
毛糸の話で例えるなら、ほどきながらその部分を読み上げている感じで、「文章」「日本語」としてのまとまりがない感じ。
そんな中、私がどうやってそれを克服したのかというと、「一人で喋る」でした。
車の中で、「今日あのシーンで言いたかったことを最初から最後まで言ってみる」とか、家で「明日のプレゼンの内容を全部練習する」とか、時には会社のトイレでブツブツ反芻してみたり・・・と、とにかく自分の中で言葉にして出してみるを続けました。
今思うと、脳みその中で思い浮かんだ毛糸の塊を、ほぐしてちゃんと人に見せられるような状態にする練習をしていたんだろうな。
その練習の甲斐あって、数年後にはそこそこ喋れる人間になれました。
それでも、なかなか上手く言葉で説明できないな・・・ってことは時々あって、そういう時は「図」を書くようにしています。
時系列をたどった図、相関図、組織図・・・図にして、描きながら話をして、自分の言葉の足りなさを補っているのです。
これは割と好評で、「わかりやすい」「説明上手」と言われるんだけれども、自分の中では言葉で上手く説明できないことをどうにかカバーしようとしているだけなんだけどな。
そんな感じで、私の頭の中では、言葉にして出すまでに、図や絵(みたいなもの)を日本語にするというワンクッションがあるのだろうな、と思いました。
読書の世界にのめり込むまでのタイムラグ
そう考えると、色々と合点が行くな・・・と思うことはまだ出てきます。
たとえば、私は読書が好きなんですけれども、何をどうしても、その本の世界に入り込めないぞという事が時々あります。
設定が難解、登場人物が多い、などがその条件なのかもしれないなと思っていましたが、もしかしたら「その内容が思い浮かぶか否か」っていうのも関係があるのかもしれない。
設定が難解だったり登場人物が多かったりすると、パッとその世界に入り込めなかったり、「えっと・・・花子と梅子は姉妹で、梅子の彼氏が太郎で、太郎の学生時代の友人の部活仲間が次郎で、次郎の元カノが梅子?」とか言葉で考えだすと、上手く脳が動かない、なんていうのもあるのかもしれないな。
そのへんが整理されて、少し落ち着いてくると、突然本の世界にスッと入れるようになって、そこから再度冒頭を読み直したりするんですよね。
今回の話は全て「認知特性」が原因なのかはわからないけれども、「自分の脳みそはなんてポンコツなんだ!」と思った時には、こういう可能性も考えてみると、一つのヒントになるのかもしれないな・・・と思ったのです。
こちらもどうぞ
*1:子ども0歳の時の結婚記念日は、子どもが生まれたドタバタも相まって2人ともすっかり忘れていました。