ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

だから私は、自分の子を見つめるようにしている

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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

ある日、はあちゅうさんの言動を見ていて、ふと思いました。

 

「私はなぜ、こんなに母親としての彼女の振る舞いに引っ掛かってしまうのだろうか」と。

 

 

「そんなんでママを語られても」と思ってしまう

どんなところに引っ掛かっているのか?というと、こんなところ。

 

息子君を預けているのか連れ回しているのか、明らかに大人向けの場所へ行きまくっているところ。

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かと思ったら、息子君が体調を崩すたびに「これだから育児って大変!私、めちゃくちゃママやってます!」とアピールし出すところ(そのわりには2日後には不要不急の買い物に行くことも追加で)。

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子供がいるから私が無くなる!とか言い、自分取り戻し作業(という名の出会い系アプリ活動)しちゃうところ。

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最近は、朝の息子君のYouTube見せながらの朝食の横でインスタライブをして、息子君がママー!と呼んだ一瞬だけ反応して、すぐにスマホの画面に戻るところ。

 

・・・かと思ったら、育児しているママ日本代表みたいな勢いで、育児しているパパに「なぜ男性は育児の当事者意識がないのか?」と詰め寄ったりするところ。

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・・・こういう、一連の活動を見ていると、どうしても、ふつふつと、この気持ちが込み上げてくるんですわ。

 

「あんたにだけは、言われたくないわ!」っていう気持ちが。

 

 

母親の自己犠牲を肯定するわけじゃないのに

でも、今回はそこで一旦立ち止まって考えてみましょう。

 

育児のやり方なんて人それぞれだし、子供への関わり方だって人それぞれだろう。

自分のお母さんに子供をしょっちゅう預けることだって、別に(お互いが納得していれば)問題はない。

彼女の場合はパーティー参加も、出会い系アプリで会った人と話すことも、デパートをうろうろすることも、友達とカフェでインスタ映え写真を撮る事も、仕事のうちなのかもしれない。

 

私は、「育児しているなら自分を犠牲にしろ」とか、「ママは子供のために24時間営業しろ」なんて思っていない。

自分だって、週に1~2度、土日の子どもが昼寝している間に夫に託してカフェに行ったりしていて、その時間が私のメンタルの安定のためにはめちゃくちゃ大事だと思っている。

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真面目な人、命の重さというかプレッシャーを十分に感じていてなかなか休めない人ほど、「ちゃんと休んで」「たまには外に行けると気分が変わるよ」「自分を大切に」って言いたくなる。

キャパは人それぞれだから、余裕がありそうに見える人でも、その人的にはいっぱいいっぱいなのかもしれない。

 

でも、やっぱり、はあちゅうさんを見ていると眉をひそめてしまう。

 

それは、子供の視点で見てしまうからだ。

 

 

「いつも、自分のことを見てくれない母」を想像してしまう

息子くんの立場を、目線を、想像すると、私はちょっと切なくなってしまう。

 

朝食タイムは、ご飯を食べている自分の隣でスマホの画面と話をしていて、呼ぶと一瞬は向いてくれるけれども、またすぐに画面の方に戻ってしまう。

いつもSNSの投稿やブログの投稿に忙しく、ずっとスマホを見ている。

公園に遊びに行けば、自分が走っている間にママはスマホでマンガを読んでいる。

そういえば、エレベーターに乗っている時間も読書タイムだってどこかで言っていたな。

自分のことを見てくれることもあるんだけれども、それは大体スマホ越しで、写真におさめるため。

息子君自身も、ママよりもYouTubeを見ている時間の方が長いかもしれない。

 

・・・という、息子君を想像してしまうのだ。

 

世界で一番身近な存在のママ・・・のはずで、一緒にいる時間は(多分)結構長いと思うけれども、その目が100%自分に向けられることはほとんどない人。

時々相手してくれるパパの方が、接する時間は短いけれども、自分のことをちゃんと見てくれる。

・・・ってなってないかな?と想像してしまうのだ。

 

「子供の頃に、親に愛されていなかったと感じた」「自分以外のきょうだいが贔屓されていて、自分は疎外感があった」・・・そんな子供が大人になっても、幸せに生きている話なんて、たくさんある。

でも、「現在進行形の子供」には、そんな目に遭う子が一人でも減って欲しい、と思うのは、そして声を上げるのは、果たして余計なお世話なのだろうか?

 

 

「子供が可哀想」という言葉の刃

育児中の親には、「子供が可哀想」という言葉は、鋭く突き刺さる。

 

「保育園に行かせるなんて可哀想」

「片親だと可哀想」

「一人っ子だと可哀想」

「子連れ再婚は可哀想」

・・・色々な「可哀想」パターンがあるし、本当に余計なお世話で黙ってろクソ!って思うこともあるんだけど、こうやって考えると、この「可哀想って言う」のは、言っている本人はきっと子供の立場を想像して、ついつい、よかれと思って言ってしまうんだろうな、と思う。

 

 

だから私は、子どものことを見つめている

そうやって色々と考えていると、「子供から見た我が家の状況」っていうのを冷静に考えるようになってきた。

そして、他人のことはさておき、私自身は「自分の子のことを、ちゃんと見よう」って気持ちになる。

 

手づかみ食べが出来るようになったけれども、おやつの時間は隣に座って「美味しいね」と声を掛けるし、テレビを見せる時も膝の上に載せて後ろから抱きしめてみるし、公園でも思いっきりウンコ座りして子どもの目線と合わせてみる・・・

「どうしてもスマホが気になる!」って時は、スマホの電源を切るようにしている(これは夫が在宅だから出来ることかもしれない)。

・・・そうやっていると、家事なんて全然出来ないから料理はテキトーになるんだけど、子どもとの信頼関係はきちんと構築出来ている気がする。

 

これも、バランスだと思うんだけどね。

やり過ぎると押し付けがましいし、一人遊びが苦手になったりと何か弊害があるかもしれないし。

 

でも、そうやって、かなり意識して子どもを見るようにしている育休中の今でも、子どもと向かい合って見つめ合う時間って、1日の中ではすごく短いなと思う。

 

だから、もしもはあちゅうさんが、息子君をその目でほとんど見ていないとしたら、すごく勿体ないなと思ってしまうのだ。

本人からすれば、クソ余計なお世話なんだろうけど。

 

 

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