ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

批評とは、ストーキング

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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

SNSでの誹謗中傷の厳罰化が検討されているということで、和田アキ子さんをはじめとしたアッコ芸人の方々があれこれ言っている、果たしてこの人達におまかせして大丈夫なんだろうか?というテレビ番組を、子どもに離乳食を食べさせている夫の横でボケーっと見ていました。

 

ここでも書いたけれども、世間的には「私の心が傷つくような悪口=誹謗中傷」っていう認識なんだろう。

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「自由な発言ができない」という意見に対して、「自由な発言であろうと人を傷つけるのは良くない」というのはもっともだし、傷つく誰かっていうのはゼロであるべきだと思うんだけれども、「つまらない」「似合わない」「この意見は間違っている」が言えない世の中になってしまうのはどうなのか?と思う。

・・・けれども、それも「つまらないと言われて傷ついた」というのは、誹謗中傷になってしまうのだろう。

ダウンタウンの松本人志さんが「おもんない(面白くない)=誹謗中傷」みたいな言い方しているのを何度も聞いたしな。

 

さて、そんな中、私は「批評とは」ということをここ最近ウンウンと考えていました。

「私は、自分では批評をしているつもりだけれども、誹謗中傷をしているのだろうか?批評と誹謗中傷はどう違うのだろうか」と自問自答しながら。

 

そんな時に、ちょうど最近発見したブックカフェに置かれていたこちらの本を読みました。


 

 

「批評とは何か?」という私の問いに対しての、ヒントになればいいなと思って。

 

先に結論を言ってしまいますが、この方の定義する「批評」は私の考えているそれととても近しいものでした。

なので、「そうそう、そうなんだよぉぉぉ!」という気持ちでサクサク読めました。

 

 

批評とは、ストーキング

この本は、「精読する」「分析する」「(批評を)書く」の3ステップと、それを使って議論したりコミュニティを作ったりするという章がありました。

 

私の問に対する、著者からの答えは「精読する」の章の中で沢山見つけることができました。

 

現実世界では誰かの吸う息やら動きやらを観察し続けるということはプライバシー侵害あのでやるべきではないことですが、芸術作品の鑑賞というのはこの「見つめていたい」の語り手がやっているレベルのストーキングが許され、むしろ評価される唯一の場です。(p.19)

 

批評とは、ストーキングであり、批評におけるストーキングは評価される、という話ですね。

 

なぜ虚構の世界ではこうしたストーキングが許され、評価されるかというと、芸術作品というのは現実世界と異なり、あらかじめ受け手によって探索され、理解されるためのものとして作られているからです。(p.19)

こういう、対象をものすごくじっくり細かいところにまで気を配って読むやり方を「精読」(クロース・リーディング)と呼び、あらゆる批評の基本とされています。(p.20)

 

批評するためには、じっくり読まないといけない。

その結果、批評する人の方が作者が意図していなかった心の奥底に眠る「心の核」みたいなものをつかむこともあるのだろう。

・・・それは、作者が望まないことなのかもしれないけれども。

 

 

「リスペクトの気持ちを持つ」と「辛辣な意見を書く」は両立する

はあちゅうさんは、繰り返し「批評をしてもいいけれども、批評は私に対してネガティブなものであってはいけない」みたいな書き方をしています。

 

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「作者を持ち上げ、成長させるような批評のみを批評としか認めない」みたいな読み方をしてしまうけれども、それってただの「ヨイショ」なんじゃないの?と思ってしまう。

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彼女は以前、赤入れをする編集者が嫌いで、良いところを言ってくれる編集者が好きみたいなことも発言されていましたが、その結果が・・・「最近、本、出してなくない?」に表れている気がする。

 

人間としてリスペクトするというのは、「本人の気持ちや思考回路を慮る」ということで、その結果「私はこの作品が面白くないと思った」「この意見には反対だ」となるのは、批評として成立していると思う。

 

芸能人がテレビで発言する「誹謗中傷された」の中には、これと本当の誹謗中傷が混ざっている気がするんだけれども、本人たちはその辺の区別なく「私は誹謗中傷された、厳罰化賛成!」と言っているように見える。

 

そして、書き終わったもの、世に出したものに対しての批判的な言葉に、あれこれ注文を付けるのは、「作者」として成熟していないと思うんだよな。

じゃあ、自分の中で納得いくまで突き詰めてから世に出してくれよと思ってしまう。

 

基本的に作品は世に出た瞬間、作者の手を離れるものだと考えてください。異なった文化的背景を持ついろいろな受け手が作品を受容し、違う解釈を作り出すところに批評の醍醐味があります。解釈は受け手が自由に行って良いものであり、優れた批評は作者が考えてもいなかった斬新な解釈を引き出すことができます。(p.62)

 

簡単に発言したり、その発言を簡単に消したりすることができる世の中になったからか、「自分の言葉」に責任を持たない人が多くなっている気がしてしまう。

でも、消した言葉であっても、キャッシュやら魚拓やらで結構残っているものだから、本人が思うほど簡単には消えないのだ。

 

 

批評家と法的措置

この新書の内容には、おおむね同意で、私は私の考える「批評」を、ポリシーを持って今後も行っていきたいと思いました。

 

・・・が、この『批評の教室』を書いている著者の方は、色々なところで「法的措置」を取っていらっしゃるようです。

 

少なくとも日本の学校においては、中等教育くらいまでは作品の批判的な考察というものがあまり行われておらず、批判をするのも受けるのも慣れていない人が多いということです。(p.177)

(私のような)劇評家というのは観客席というコミュニティで働く同調圧力に対抗できるだけの精神力が必要なので批評家の中でも特にたちが悪いということを念頭に置いて読む必要があるでしょう。(p.134)

 

こんなことを書いているのに、結局、人は「自分が悪く言われる」ということに対しては、どんな立場の人であろうと、耐えられないものなのかもしれないな・・・と思ったのでした。

 

 

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