こんにちは、ドクダミ淑子です。
少し前に買っておいた、こちらを読み終えました。
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出産前に出来ていたけれども、育児の合間に出来ていないことNo.1は読書なんだよな。
まぁ、私の場合は、ブログを毎日書いているっていうのが、読書の時間の確保が難しくなっている理由なんだけれども。
どんな内容なの?
公式サイトによると、こんな内容です。
物書きなら、文章でやり返せ!
『発達障害グレーゾーン』大ヒットの姫野桂、待望の初エッセイ閉塞的な地方都市で一人っ子として生まれ、毒親傾向のある両親に育てられた子ども時代。スクールカースト底辺から抜け出せなかった中高時代。ヴィジュアル系バンドの推し活に恋に、遅れてきた青春を捧げた大学時代。発達障害(30歳になってから発覚)の二次障害の双極性障害や摂食障害に苦しめられた就活、すさまじく向いていなかったOL時代。25歳でライターに転身、やっと自分の居場所を見つけたものの、タチの悪い仕事関係者に「都合の良い女」にされたり、風俗嬢のアルバイトをしたり、ネット炎上騒動に巻き込まれたり、コロナの影響でアルコール依存症になったり……「自己肯定感超低い女子」の33年の軌跡。
こう読むと、生きづらさをてんこ盛りにした、読んでいてしんどくなるような内容だと思うかもしれません。
でも、そうじゃなかった。
少なくとも、私にとっては。
「生きづらさ」の話なのに、読んでいてつらくない
時々あるじゃないですか。
「私はこんなに生きづらくて、毎日つらくて、かわいそうなんです!」みたいな内容の本。
それはそれで、どこかの誰かの心にぶっ刺さって、共感しまくって、感動するのかもしれないけれども、今の私にとってはそれを読むのはしんどい。
そんなに「私はかわいそう」を押し付けないで欲しい・・・と思ってしまうし、読んでいてその暗さや重さに自分の心まで飲み込まれてしまうのではないかという恐怖心も生まれてきて、ちょっとバリアを張って距離を取ろうとしてしまう。
余談だけれども、はあちゅうさんのエッセイって、そういう「かわいそうの押し付け」みたいなものを感じる。
客観的には大して悲惨ではない人生を、「かわいそう」と言われたいがためストーリーを作って、陰キャ時代・ブス日本一事件・電通でのセクハラパワハラ・炎上・SNSでの誹謗中傷・・・みたいに「みんな、私をかわいそうだと言ってぇ~!」と連打してくる感じ。
だから、ちょっと読んでいてぞわぞわするし、ツッコミたくなってしまうのかもしれない。
はあちゅうさんの話は、まぁ置いておいて。
『生きづらさにまみれて』は、確かに中身は、生きづらい話ばかりなんだけれども、読んでいてこちらが引っ張られるようなつらさを感じなかった。
なぜ、そう思うのか?
私が私を見つめる距離
私が思ったのは、3つ。
1つは、作者自身が自分の「生きづらさ」を客観的に見ているからだろうということ。
「私はこんなにつらいの!助けて!」っていう、自分の生きづらさの沼にはまっている状態で書いているのではなく、ある程度「生きづらさ」を遠くから、客観的な視点で見つめられているからではないだろうか。
2つ目は、私「だけ」が生きづらいと思っているわけではないということ。
内容の大半は姫野さん自身の「生きづらさ」なんだけれども、時々、風俗嬢やフェミニスト、普通のサラリーマンや婚活女子など、色々な人の取材をしながら、「自分以外の生きづらさを知りつつ、自分の生きづらさを見つめる」みたいな文章がある。
当たり前だけれども、他の人には他の人の人生があり、時には生きづらく感じることもある・・・っていうのが、うまいバランスで書かれている。
そして最後、3つ目は、「誰かのせいにしない」というところ。
姫野さんが生きづらいのは、色々な人のせいにしようと思えば、いくらでも出来る。
毒親、子供が夢を語るとそれを否定してくる先生たち、自分を大切にしてくれなかった元恋人たち・・・などなど。
でも、その人達に触れながらも、決して「私が生きづらいのはお前のせいだ!」とは言わない。
いや、もしかしたら言っているかもしれないけれども、それを全面に出してこない。
そういう「他人のせいにしない」ところが、私は好きだなと思った。
「炎上」の項目が、例のあの方
最後に、P.64~の「炎上」という項目で、Iさんという広告代理店出身で名刺交換をしない主義の方が当たり屋みたいに突撃してきたというエピソードがあります。
私もその事件を読んだ当時は、フガフガさせながらブログを書きました。
このブログでも時々取り上げる「No.1インフルエンサーを名乗る人」をご存じの方は、読んでみると「ふむふむ、あの話か・・・」とニヤリとすると思いますので、そちらもあわせてお楽しみください。
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