ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

子育てにおける親の成長は意識しすぎない方がいいと思う

こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

子どもと遊ぶ日々の中で、思うことがあります。

 

この、子どもと遊ぶということに、「大人にとっての意味」なんて求めたらいけないな、と。

 

 

エンドレス絵本で私は成長するのか

たとえば、ある1日。

私は、エンドレスで『だるまさんが』を読んでいました。

 

[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

だるまさんが [ かがくい ひろし ]
価格:935円(税込、送料無料) (2022/1/10時点)

楽天で購入

 

「だ・る・ま・さん・が・・・どてーっ!」

ニコニコ笑う子ども。

 

「だ・る・ま・さん・が・・・ぷしゅーっ!」

ゲラゲラ笑う子ども。

 

「だ・る・ま・さん・が・・・にこっ!」

終わると同時に、くるりと表紙を見せる子ども。

 

これの繰り返しをしていました。

 

なぜこんなにツボにはまるのか?

その理由はよくわかりませんが、とりあえず子どもはめちゃくちゃ嬉しそうで、何度でも同じシーンで笑い、そして「もう1回!」とばかりに読み終わった本をひっくり返すのです。

 

『だるまさんが』は、買った当初はあまり好きではなかったようで、失敗だったかなと思っていたけれども、気付いたら1番よく笑う本になりました。

そして、そうなってからはわりとエンドレスで読んでいる。

この本に限らず、読み始めた本はだいたいエンドレスで読むことになる。

 

そこに「大人にとっての意味」など、ひとつもなくて、ただ子どもが喜び続ける限り、あと時間が許す限り、読み続けている。

 

また、ある1日。

私はテーブルとソファの周りをぐるぐるとつかまり立ちで歩く子どもを見守っていました。

子どもは自分で自由に歩き回れるのが嬉しいのか、キャッキャッと笑いながら歩き回っています。

時々、こちらをチラチラと見て、「ママは自分のこと見てくれているかな?」と気にしながら。

そして、トテトテと歩いているうちに、疲れてきたのか何もないところで転んで、ちょっとおでこをコンっとぶつけてしまい・・・

 

「いやいや、転んだけどそんなに痛くなかったでしょ?」と声をかけても「痛かった」と言わんばかりに泣く子ども。

よく見たら、涙は出ていません。

・・・嘘泣きかーい!

でも、抱っこしちゃうんだけどね。

 

こんなに構ってちゃんで大丈夫なのか?と心配になりつつも、親に構ってもらえるって安心するよねと私の甘やかしっぷりを肯定してしまう。

まぁ、これも保育園に入るまでだし・・・(と思うとさらに甘くなる)

 

と、少し長くなりましたが、育児、とりわけ遊びの中って、だいたい子どもが延々とやることの相手をしたり、見守ったりってことが多くて、そこには「親の成長」なんてことは何もないんですよ。

ただ、子どもが楽しそうにしていることのそばにいるだけ。

 

 

子育ては、つまらないことの繰り返し?

私がなぜ、そんなことを言い出したかというと、ある人が「公園に行くのに飽きた」「つまらないことの繰り返し」「子育ては子供ファースト」「私は忍耐を鍛えている」と書いているのを見かけたからです。

 

いや、わかるんだけどさ、わかるよ。

私だって、別にエンドレスで『だるまさんが』を読みたいわけではないし、できることなら読まずに生きていきたいし、自分の積ん読をどうにかしたい。

でも、そんな「できることならやりたくない」に勝る、「だって子どもが楽しそうだから」っていう気持ちがあるのだ。

そしてそれは、私の中の「自分のために本を読みたい」とか、「自分の見識を深める時間を使いたい」とか、そういう「自分に向けたやりたいこと」を上回っているのだ。

 

もちろん、「子どもが寝ている間は〇〇をしよう」っていうのはたくさんあって、ブログを書くこともその1つ。

私は、よく昼寝する子どもと、子どもの面倒を見てくれる夫がいるから、のんきに構えているのかもしれないけど、子どもと遊びながら「飽きた」「つまらない」と言ってしまう人に違和感を覚えた。

なんていうか、「子育ての中でも自分が楽しいと思うことだけをしたい」っていう、その幼さに。

子どもと同じように自分も楽しみたいっていうのは、幼児期には難しいんじゃないのかな?

 

 

自分の成長のために子育てをする?

そんなことを考えていると、「もしかしてこの人は、子育てを通して自分の成長とか成果とか、そういうわかりやすい、自分側のメリットを得たいと思っているんじゃないか?ということが浮かんできた。

 

そういえば、子どもと一緒にどんぐりを拾いながら、「周りの友達はキャリアアップしている中、私はどんぐりを拾っている(なんのキャリアアップもしていない)」みたいなことを嘆いていたこともあったなぁ・・・

 

でも、そういう「自分側のメリット」を考えれば考えるほど、苦しくなるのが子育てだと思う(まだ1年しかやってないけど)。

だって、自分側のメリットなんて、ほとんどないもん。

ただ、子どもが毎日楽しく、元気に過ごせることを陰から日向から支えたり手を添えたり見守ったりするだけ。

 

どんぐり拾いも、子どもが目を輝かせているのを、ただ目を細めて見るだけ・・・で、今の私だったら嬉しいと思うけどな。

我が子が歩いていることに、どんぐりを見つけてしゃがめることに、指でつまんで持ち上げることに、そしてこちらを見て「見て~」と言ってくることに、駆け寄ってきてどんぐりを渡してくれることに・・・全てに成長を感じて、じんわりと嬉しさが込み上げてくると思う。

だって今、その動き、1つもできないんだもの。

その嬉しさの中に「親である私のメリット」なんて1つもないけど、幸せはたくさんある。

 

件の人はそれでも「忍耐を鍛えている」と自分のメリットに繋げているみたいだけど。

 

 

自分の成長を意識するとしんどくなる

子育てを通しての(親である)自分の成長なんて、考えれば考えるほどしんどくなると思う。

子供のどんぐり拾いに付き合う自分と仕事をで成果を出す友人とを比べても意味がないし、比べれば比べるほど、「子育てを通した成長」ばかり意識してしまう。

 

エンドレス絵本音読や、積み木くずしに親の成長なんてないし、なくていいと思う。

子供の成長に繋がればそれで幸せだし、そこに自分の成長は求めない。

結果として何かしら、何年後かに「これが自分の成長だったな」と思うことはあったらラッキーくらいの感覚でいた方がいい、と思う。

 

 

いつから「成長」を目標にするようになったのか

というか、なんでもかんでも「成長」を求めるの、現代人の悪いクセだよな。

 

産休前に自社の採用担当者と話をしていて、最近の学生は「どういった成長ができるか?」ということを細かく聞くようになった、ということを聞いた。

「だから、半年後・1年後・3年後とか割と短い期間での成長ポイントを具体的に話していくんです。そうすると、ウチより大手企業を辞退してウチに来ましたって子が出てくるんですよ。ウチの方が早く成長できそうだから、って」

 

ホワイトニング中だけどいつまで経ってもホワイトニング完了しない、つまりブラック風味が無くならないこの会社に、「成長」なんて言葉で騙されて入ってくるのか・・・と、自分も騙されて入ってきた私は思いました。

 

「成長したいからこの会社を選びました!」

そういえばよく聞くセリフだけど、この「目に見える、わかりやすい成長を求める風潮」って、どうなんだろう?

これと同じように、「成長したいから〇〇」っていう風に、常に「成長すること」を目的に生きていくと、件の子育てに自分の成長を求めるような感じに仕上がるんじゃないかな・・・なんて思ったのです。

 

 

今こそ、IMALU

成長成長と叫ばれがちで、成長することが良いことで、常に成長しなければいけないという空気がある気がする、今。

そんな今こそ、IMALUなんじゃないかな?と思う。

 

IMALU=生きてるだけで丸儲け。

 

別に成長しなくても、生きているだけで万々歳じゃん、って考え方。

特に子育てに関しては、子どもも自分も生きているだけでOK、くらいにドーンと構えておいた方がいいと思う。

そこに、親の成長なんて考えると、苦しくなるから。

 

結果として、何かしら成長しているとは思うし、出来ることならそうであって欲しいけど、「この公園遊びを通して私はこんな成長をするのだ、こんなメリットを享受するのだ」なんて考えるのは無理があるし、無駄だと思う。

 

・・・そんなことを考えながら、私は今日も公園で子どもが立ったり座ったりするのを、目を細めながら、眺めるのです。

 

 

こちらもどうぞ

www.dokudamiyoshiko.com