こんにちは、ドクダミ淑子です。
12月19日、深夜1時50分ごろに、子どもの夜間授乳で起きました。
いつものように、飲んで気が済んだらコテンと寝てしまった我が子。
私はそのまま寝ればいいのに、ついつい、Twitterを開いてしまいました。
すると、女優の神田沙也加さんが重体というニュースが目に入ってきました。
・・・そして、追って亡くなったというニュースも。
その日いつもより1時間半も早く寝てしまったこともあったのか、私はこれを見ても目が醒めてしまい、なかなか寝付けなくなってしまいました。
「理解できなくていい」と思っている
私は、自ら死を選ぶということを理解することができません。
でも、理解できないままでいいと思っているし、できることなら理解できないまま一生を終えたい。
・・・と言いつつ、産後はホルモンバランスがおかしくなったからか、「死」ばっかり考えていた時期もあったんだけど。
だから、有名人が自らその命を絶ったというニュースを見ても、それはどこか自分にとっては他人事で、でもそれでよいのだと思いながら、今まで生きてきました。
でも、同い年の女性が亡くなったというニュースは、いつもとは違う感覚で私の中に入ってきました。
ある種の「決断」なのかもしれない
前回のブログで、「引っ越しは、大人になった人にとっての数少ない『決断』なのだ」という話を書きました。
もしかしたら、ある種の人たちにとっては、「自らの命の終わりを決める」ということも、人生における決断の1つなのかもしれないな、と思った。
同じくブログで「決断しないという選択をし続けているのも、またそれも決断をしているのと同じなのだ」という話を書いたんだけど、「死」が身近にある人達は、「今日は死ぬのか、死なないのか」いう決断を日々していて、その結果生きるを選択し続けているのかもしれない。
ニュースで、父親の神田正輝さんの誕生日の「前祝い」をしたと書かれていて、なぜ3日待って、当日におめでとうを言えなかったのだろうか?と思うんだけど、きっと本人にはその3日生きていることが耐え難かったのだろうとも想像してしまう。
そこまで死にたくなることがない私からすれば、それは何の根拠もないただの妄想なんだけど。
「死」を思うとき私は
産後の「死」を意識した時期は、1日が終わるたびに「また死ぬ日に1日近づいてしまった」と毎日考えていた。
そんな感じでずっと「死」を意識して生きていたんだけど、今になってよく考えたら、別に死にたいわけじゃなかったんだなと思う。
死ぬのが嫌で、それが近づくのが嫌で、死んだらどうなるのだろうか、死にたくないと恐怖する。
「死」ばかり考えていても、結局それは「生きたい」にたどりつく・・・やっぱり私は、そういう人間なのだろう。
でも、やっぱり「私は、それでいい」と思っている。
最後にひとつ。
自ら命を絶った人が、死を選んだ理由なんて、第三者が憶測で語っても意味がない。社会のせい、何かのせいにして自分の狙う方向に持っていこうと語る人は、他人の死を利用するおかしい人だ。
— ドクダミ淑子 (@dokudamiyoshiko) July 18, 2020
残された人間がすることは、悲しむこと、冥福を祈ること、そして自分の命を見つめることだけ。
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