ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

自信と過信と

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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

1年に1回くらいですが、定期的に、こんなご意見をいただきます。

 

「上から目線」

「偉そう」

「他人を馬鹿にしている」

 

同じ人からではなく、色々な方面の人から飛んでくるので、きっとそうなんだろうな・・・というか、そう見えるんだろうなぁと思っています。

思って、そのまま読み流しているんですけれどもね。

まぁ、きっとそういうところが「他人を馬鹿にしている」って見えるんでしょうね。

あ、ブログのコメントの場合はどんな内容であろうと「承認」を押していますよ。

 

自分としては、そういう自覚はないし、むしろどんな人に対しても尊敬の念は持ちたいよねと思っているので心外ではあるのですが、今回は「どうしてそういう風に見られてしまうんだろうか」ということを、真面目に考えていきたいと思います。

 

 

自分に自信があるのです

私が思うに、きっと私が偉そうとか上から目線とか見られるのって、「自分に自信があるから」なのかもしれない。

 

というか、「私なんかの分際でこれを言うのは恐縮ですが」とか、「私なんて大したことないのにおこがましい」とか、そういうことは考えずに、思ったことを書くようにしています。

特に、ブログやTwitterでは。

 

そうやって、色々なことを言い切っていくから、たぶん見る人が見ると「偉そう」なのでしょう。

 

特に、「私はそんな偉そうなことを言えない」と思って遠慮してしまうタイプの人には。

 

 

他者の視線を作って、自分にツッコミを入れてしまう説

「私なんぞが」と発言を遠慮してしまうタイプの人は、他人からの視線を気にしている人なのではないかと思います。

少なくとも、私よりは、ずっと気にしている。

 

「私なんぞが・・・」と言う人は、他人から「あなた程度の人がその発言をするなんておこがましいぞ」と言われることを想像しているのではないでしょうか。

別に誰に言われるわけではないのに、自分の中で「他者の視線」を作ってしまって、勝手に「他者からどう評価されるか」を想像し、それで自分にツッコミを入れている・・・私にはそう見えます。

 

では、私はなぜ他者の視線やどう評価されるかを気にしないのか?

 

その原点は、多分中学生くらいの時からだと思います。

・・・いやわからんな、小学生くらいの時からずっと「変わった子」と言われていたけれども気にしていなかったしな。

でも、自分の中でわりとはっきり覚えているのは、中学生の頃の話。

 

 

他人の評価より、自己評価で生きてきました

私は、片田舎の公立中学校の出身なのですが、まぁ勉強はできたんですね。

小学校の時から出来ていたのですが、中学校の時にうっかり学年トップ争いに参入してしまい、そこから「1位」を目指して常に勉強をする人間になりました。

 

「また自慢かよ」というツッコミはとりあえず引っ込めておいてください。

全校生徒たった200名の話ですし、高校に進学したら上位20%くらいまでに落ちましたので。

あ、これも自慢になる?・・・すみません、もう自慢で結構です。

 

世の中には「何もしなくても理解できる天才」と「圧倒的な努力で天才との溝を埋める凡人」と、その他がいるのですが、私は後者の人間で。

ただ「1位」「学年トップ」というのに強く惹かれてしまったんですね。

運動も苦手、美人でもない、スタイルが良いわけでもない・・・特に取り柄がない自分に「勉強」というところで強みが出来たことで水を得た魚のようになりました。

後々東大に入った(と噂で聞いた)人がいて、その人に勝つべく、特に定期テスト前は猛烈に勉強しました。

 

ただ、それが自分の母親からは、全く褒めてもらえなかったんですね。

それどころか、「女の子がそんなに勉強しても仕方がない」とか、「いくら勉強が出来てもトイレの電気を消し忘れるなんて」とか、そんな感じでむしろ勉強ができることがマイナスに捉えられていました。

うちの母にとっては、トイレの電気をちゃんと消すことの方が、学年で1位を取ることよりも重要だったのです*1

・・・そう、私はたとえ勉強は出来ても「トイレの電気を消す」という簡単な習慣すら出来ない人間なのです。

偉くもなんともないっていうのは、自分自身が一番よくわかっている。

 

まぁそんなこんなで、中学生の私としては「私はこんなに頑張っているのに」「○○(後の東大卒)の家は学年トップだと1万円(中学生にとっての大金)がもらえるくらい価値があることなのに」などと思って悶々としていたんですよ。

でも、トイレの電気を消すことはしょっちゅう忘れるわけで、母親から褒められることは絶対にないのです。

 

なので、そこから他人の評価というものを気にすることを止めました。

「お母さんに褒めてもらえなくても、自分で良いと思えるなら、それでいいや」と。

 

だから、私の自信っていうのは、誰にも左右されずに、自分の中から発せられているのです。

 

・・・なんだこのくだらないエピソードは。

 

 

自分が良いと思えば、それでいいじゃないか

そんなだから、私は「自分が良いと思えば、それでいい」と思って、今まで生きてきました。

まぁそれ以外にも、この手の話は多々あるんですけれども、それはまたの機会があればって感じで。

 

他人に何を言われても揺るがないから、きっと「偉そう」に見えるんだろうな。

「私はこう思う」「私にはこう見える」を忖度なく言っちゃうから、「上から目線」に見えるんだろうな。

 

でも、これって別にダメなことではないと思います。

 

むしろ「他人からこういうツッコミを受けるかもしれない」と気にしすぎて、何も発言できなくなっているなら、そっちの方が不健康だと思う。

 

 

過信にならないようにだけは気を付けたい

ただ、こういう「誰に何を言われても、気にしませ~ん」っていうのも、やりすぎは問題で。

誰の意見にも耳を傾けずに「私は私だもん!」とやり続けていると、あらぬ方向に進みながらも「私は私!」を貫くヤベー人になってしまうからです。

 

そういう意味では、定期的に「お前は上から目線で人を馬鹿にしている」とコメントをいただき、そのたびに「そういう風に見えるのは、私のどういう面なのかしら?」と考えていくっていうのは良いことだと思う。

 

先ほど「読み流す」って書きましたが、実際はちゃんと読んで、自分を省みて、その結果「うん、そういうところはないな(自己申告)」と思って忘れるってやっています。

読んだ上で、流しているって感じ。

 

ということで、お山の大将にならないように、天狗にならないように、そういうご意見も大事にしながら、これからも自信マンマンで生きていこうと思います。

 

 

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今週末からバチェラー4ですね!楽しみ♪

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*1:このトイレの電気を消さない問題は、私が実家を出るまでケンカの種になり続けていたのですが、ある日「罰金10円にしてください」と貯金箱を出した時から、ゲーム形式になり途端に母の態度が軟化し、「10円!」と楽しそうに言うようになりました。なんやねん・・・