こんにちは、ドクダミ淑子です。
時々、ふと思うことはあります。
「それは、『逃げ』ではないか?」
私が自分自身に「逃げ」を感じる時
どういう時に、「逃げ」を感じるのかというと・・・
たとえば、怒りをあらわにしている人を見かけたとき。
「イライラする」「ぶん殴ってやりたい」「嫌いすぎる」などなど、誰かに対して怒りや嫌悪感やその他をストレートにぶつけている人を見ると、色々な思いが沸き上がってきます。
「激しいな」「怖いよ」「もっと穏便にやればいいのに」「強い言葉で言っても伝わらないし自分の印象が悪くなるだけなのではないか」「もっと上手いやり方があるんじゃないか」などなど、自分だったらどうするか?と、「もう少し穏やかに」とばかり考えてしまうのです。
でも一方で、時々こんな気持ちも出てきます。
「自分の気持ちに正直なんだな」「後先考えずにここまでストレートに言えるなんてすごいな」「絶対批判にさらされるネタなのに、あえてそこに切り込んでいくのか」などなど。
また、ブログで諸々書いている時も、読み返して「表現が穏やか過ぎるな」「至って普通のことしか書いてないじゃないか」と思うこともあります。
「中立っぽい立場で書くのって、自分の立ち位置が中途半端な表れじゃない?」「もっともっと、『私はこれを悪いものだと思っているのだ』という書き方のほうがいいのでは?」「優しいというか、これは『甘い』と言った方が正しいのかもしれない」などなど・・・
私は何かを書くときにあらかじめ「逃げ道」を作っているのではないかと思うことがあるのです。
「これはただの批判ですよ?誹謗中傷ではありませんよ?」「この人が憎くて書いているわけじゃないんですよ?」
いや、実際そう思っているんだけど、「そう思っている」ではなく、「そう思い込んでいる」「そういう暗示をかけている」のではないか?なんて思ったりもする。
「誰かを傷つけるかもしれない」が怖い
私はきっと、こんなブログを書いているけれども、根本のところでは、誰かを傷つけてしまうかもしれないことが怖いのかもしれない。
先日、少し前までTwitterでやりとりしていた人を最近見かけないなと思って探してみたら、ブロックされていることがわかった時、私は何で彼女を傷つけてしまったのかと考えてしまった。
はあちゅうさんについても、わざわざハッシュタグをつけて呟いたりしているけど、私は本人からブロックされているから見えないものだと思って書いている。
時々、すごいシンクロ率が高まったりするけれども、それはきっと似た者同士で同じようなことを考えているからだろうと思っている。
「本人が読むはずがない」と思っているから、ある程度のことを書けるのだ。
恐れずに書ける人に触れて
そんな私の目の前に、こんな記事がやってきました。
さすがのマダムユキさん。
そうそう、なんでそんな男性と付き合っているんだろう?女性側もアレだけど、男性も大概だぞ・・・と誰もが言いたいけれども「個人の自由だから」「本人が選んだ人だから」「幸せの形は人それぞれだから」なんて聞こえの良い言葉で濁している中で、「男捨離したら(=別れたら)?」とハッキリ書いてしまう。
これこそ、「逃げずに書く」だなと思ったのです。
そして、私もこういう文章が書きたいと改めて思いました。
・・・と言っても、すぐに文章がガラリと変わるわけではないと思います。
別に今の文章だって、「嘘・偽り・オブラート100%」で書いているつもりではないしな。
ただ、「ここまで書いたら、あんなことやこんなことで傷つく人が出てくるかも」という気持ちで自分の意見に蓋をしないように心がけていきたいな、と改めて思ったのでした。
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