ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

世界の広げ方

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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

2年くらい前に、新卒1年目の女性の同行をした時のことです。

その子は、結構な田舎から2時間近くかけて通ってきている子でした。

台風が来れば電車が止まり、強風が吹けば止まり、濃霧でも止まり、線路の凍結でも止まり・・・と、何かにつけて電車が止まって帰宅が困難になりながらも、頑張って通勤していました。

 

そんな状況だと「一人暮らししないの?」とはよく言われるのでしょう。

私と住まいの話になった時に、「○○に住んでいます」と言ってすぐに先手を打たれました。

 

「私があの街に住んでいるのは、家族が大好きだからです。 街が好きなわけじゃないんです」

「あの街にいても、私の世界は広がらない」

おうおう、結構な勢いでかぶせてきたなと思いながら「そうなんだね」・・・と適当に相槌を打ちました。

 

「私の世界」、そして「世界が広がる」。

社会に出たばかりの23歳から発せられたこの言葉は、引っ掛かったまま、今までずっと取れていませんでした。

 

それならば、何をしたら、世界は広がるのだろうか?

 

 

世界を広げる気はあるのかね?

私がこの言葉が引っ掛かっていた理由の1つに、「世界を広げたい」発言をしていた彼女の世界は、私の目にはあまり広がっている気配がなかったのです。

というか、広げようという気があまり感じられなかった。

「そうなんですね~」とひたすら相槌を打つだけで、質問をしたりして話を広げようという雰囲気もなく、表面上をさらっと聞いて終わり。

 

何を聞いていいのかわからないのか、無知なのがバレるのが恥ずかしいのか、または相手に興味がないのか・・・

・・・っていうか、私、同行前に2回くらい打ち合わせしたよね?

初回は「この会社は『商社』だから、商社とは何かを調べてね。ヒントは、メーカーと比べてみることだよ」とか、宿題出したんだけど、それも「宿題は・・・」「わかりませんでした!」って一言で終わっちゃったから、詳しく説明したりとかしたんだけどな・・・

何を聞くかのリストまで作ったよね?なぜ聞かないのだ?

 

ああ、わからない。

この子の「世界を広げる」というのは一体何を指すのだろうか?

 

 

受け身でいるだけで「世界が広がる」のだろうか?

今、思うに、「世界を広げる」というのは、「視野が広がったり知識が身に付きそうな場所に自分の身を置いておくことで、自分で何もしなくても自動的に成長する」みたいな意味だったのかもしれない。

 

宿題を放棄された私が仕方なく「メーカーと商社の違い」について説明している時は、ちゃんとメモを取って聞いてくれていて、「わかった!」みたいな顔をして目をキラキラさせていたもんな。

 

そうやって、「授業」を受けることで世界は広がる・・・と考えていたのだろうか?

そしてそれは、本当に「世界が広がる」のだろうか?

 

 

読書をすれば世界が広がる?

この「世界を広げる」でよく例として出てくるものとして、「読書」があります。

そして、読書で世界を広げると主張する人の中には、1日何冊読んだとか、1ヶ月で何冊読んだとか、年間で何冊読んだとか・・・とにかく「量を読め!」みたいな説を唱える人もいます。

私の目には、そういう「とにかく量を読め!」という人は、薄っぺらい人が多いように見えるんだけど。

 

確かに、読書で世界が広がることは間違いない。

私も、大学生の時は1日1冊と決めて、電車の中や講義中、学校終わりのカフェなどなど、とにかく読みまくっていた時期もありました。

 

でも、その経験を通しても、「読み方」によって世界・・・というか考え方の幅や、視野が広がる場合と、そうでない場合があると思うのです。

 

例えば、今私はONE PIECEを90冊分を約1ヶ月半で読むというミッションを自分に課していますが、私のこのマンガの読み方は、「すっげぇ!」「感動した!」くらいな感じで、特に読みながら何かを考えたりしていない。 

むしろ、アンパンマンの方があれこれと考えながら鑑賞しているかもしれない。

 

大切なのは、「量」ではなく、「質」だと思うんですよね。

特に大人になってからは。

 

 

世界の広げ方

同じものを読んでも、同じ体験をしても、その受け止め方は人それぞれ。

その中で「何を」学ぶのか?というのが、「世界を広げる」ためには重要なのではないかと思うのです。

 

もちろん、受動的な人でも、その身を置く場所によって、学べるものも違ってくるでしょう。

田舎にいるよりも、都会にいる方が、「目に映る」ものは多いかもしれない。

でも、それは「目に映る」だけであって、その中から「見る」「考える」「学ぶ」というのはまた別問題。

 

それは「読書」も同じ。

私の知っている範囲で、本なんて全然読まないけれども尊敬できる考え方の人も、存在している。

いくら本を読んでいても、全然尊敬できない人も、いる。

 

その違いは、「目に映る」ものを通して何を考え、何を実行してきたか?ということだと私は思うのです。

 

 

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