ドクダミ自由帳

モテない精神を持ち続ける既婚30代女、ドクダミ淑子の毎日

半径5メートルの世界で生きた結果


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こんにちは、ドクダミ淑子です。

 

先日、東洋経済オンラインに掲載された、こちらの文章を読みました。

toyokeizai.net

 

なんだか読んでいるうちに言葉にならぬドロドロとした感情が出てきたので、それは一体何なのかを考えながら書いてみようと思います。

 

 

読みにくさの塊

読んでみて、率直に、すごく読みにくい文章だなと思いました。

 

例えば、冒頭からこんな文章が出てきて、この一文を読んだだけで背骨がぐにゃぐにゃになりそうでした。

 

著者のピーター・スコット-モーガンさんは、かなり画期的なことをされている、世界で唯一無二と言える存在なのに、これまであまりスポットライトが当たってこなかったことが意外です。

 

小学生かよ!?

「かなり画期的」とは?

そもそも「画期的」という言葉自体が、「目覚ましい」「新しい」「時代を切り開く」という意味が含まれているので、わざわざ「かなり」をつける必要がないんですよね。

「ちょっとだけ画期的」「まあまあ画期的」「それなりに画期的」って言わないでしょ?

 

そして、文章の基本中の基本(だと私は思っている)である、主語と述語を合わせることすらできていないのです。

 

  • 主語:ピーターピーター・スコット-モーガンさんは
  • 述語:意外です

 

これも、小学生が良くやる間違いですよね。

「意外です」と思っているのは、はあちゅうさん自身で・・・だいたい「意外です」ってなんやねん!

 

著者のピーター・スコット-モーガンさんは、~といった画期的なことをされていますが、意外なことにこれまであまりスポットライトが当たっていませんでした。

 

こちらの方がわかりやすくない?

ついでに、何がどう画期的なのか言った方がよくない?

 

そんな調子で、「これ、文章としてどうなのよ?」っていうところが多かったな。

一言でいうと、「稚拙」。

作文を習いたての子どもがちょっと背伸びして書いた文章のような印象を受けた。

 

 

全てを「自分ゴト」に置き換える

日本語のことは気になりますが、一旦置いておきましょう。

もう1つ気になったのは、なんでも「私自身」「私は」「私だったら」の話をするところ。

 

まずは、ALSと対峙する中で医師にそれを否定される彼を、なぜか「私の事実婚」の話に重ねる・・・ってそこ、重なるか?

 

私自身は、夫(AV男優のしみけん氏)の職業や、事実婚であることに関する偏見や差別心を見たときの気持ちと重なるものがありました。

 

そして話は、「自分ゴト」は社会のためになるという自説を展開。

言いたいことはわかるんだけど、彼女の「自分ゴト」っていうのは「離乳食の作り方を学校で教えてほしかった」とか、「カフェでペンと充電器を貸し出してほしい」とかだからな! 

www.dokudamiyoshiko.com

 

パートナーが介護をしているという話から、なぜか自分語りを始める。

 

例えば、私が寝たきりになったとき、夫は、最初は愛情で接することができると思うのですが、性格的に、ずっと介護し続けることは難しいと思います。

 

その後も、「介護や家事には適性があって、適性がないからできない人もいる。それは愛がないからではない」という持論を展開し始めます。

 

さらに、「人間とは何か?」という話を考える時にも、自分の家族の例で考えるのです。

母が認知症になったら?と次は、息子さんとパートナーの例を出して。

 

私の家族が、もしもサイボーグ化したらと考えてみます。現在1歳半の息子については、今後どのように成長していくかは、まだ誰にもわかりません。ですから、時の止まった、成長しないAIになってしまうと、それは家族ではなく、もはやペットのようなものになり、いつか虚しさを感じるのではないかと想像します。

でも、夫の場合は、少し違います。もう41歳ですし、私も「これが彼だ」というものをわかっています。ですから、夫の体のパーツがサイボーグ化していっても、彼だと感じるように思います。

 

・・・このあたりになると、もう何が言いたいのか、さっぱりわからなくなります。

AI、AIって書いているけれども、「人工知能」のことでしょ?

パターンを学習しながら進歩していくシステムのことなのに、「成長しないAI」って何なのだろう。

そうかと思ったら、パートナーの話では「体のパーツがサイボーグ化」って書いているし・・・例えの出し方もわからないし、言いたいこともよくわからない。

ALSに対しての理解の浅さも感じる。

 

はあちゅうさんは、とにかく「私は」「私が」「私にとって」「私なら」と「私」を全開にして語るスタイルを得意とするのですが、東洋経済オンラインの書評でもそれなのか・・・とクラクラしました。

 

っていうか、どんな本なのかをもっと教えて頂戴よ!(私も読書感想文で自分語りするくせに、思いっきり棚に上げる)

 

 

文章力の低下と「私」の連呼の原因は

はあちゅうさんは以前はもう少し骨のある文章を書いていたと思うのですが、最近のSNSやブログ、noteで書く文章を読むと、その力が低下しているのではないかと感じざるを得ません。

特に、こういったメディアに寄稿している文章を読むと。

 

「なぜ、ここまで文章が稚拙になってしまったのだろう?」と考えるとき、このワードが頭に浮かんできます。

 

「半径5メートル」

 

半径5メートル(自分の周りの狭い範囲)でのことをネットで世界に発信していくことで、自分の世界を広げていこう・・・的な話なのですが、今の彼女はその「半径5メートルの成れの果て」なのだろうなと思う瞬間が、たくさんある。

 

自分の周りの肯定しかしない人たちの声しか聞かないから、文章の磨きをかける機会がなくなり、文章力がどんどん落ちていくのだろうか。

自分の周りのことにしか関心がないから、全部のたとえが「私の家族」「私の友人」になり、狭い視点でしか物事を語ったり考えたりできなくなるのだろうか。

自分の周りのことに全てを置き換えて考えるから、自分と違う世界の物語を読んでも、新しく学ぶことが出来なくなっているのだろうか。

 

「私は私の力で私の世界を広げて私らしく生きていく」の結果、作家として商売していた人の文章力がここまで落ちていくなんて・・・恐ろしいと思ってしまった。

 

 

私にとって「他人ゴト」ではない

なぜ、この文章を読んで恐ろしさを感じたかというと、「これは他人事ではない」と思ったからです。

 

私は、今育休中ということもあり、かなり狭い世界の中で生きています。

家・近所のスーパー・子どもを連れての散歩くらいで1日が終わる時もあるし、夫以外の大人と会話せずに終わる日が大半。

そういう狭い世界の中で、「自己肯定感」とやらが高まりまくると、自分の文章を客観的に見る力が低下していき、その結果書き手としては「これは最高だ」と思う文章を書いたとしても、読み手からは「何が書きたいのかわからない文章だ」と思われるものを生産してしまうような状態になってしまうのではないだろうか?

 

しかも、その「文章が下手になった」という声は、なかなか本人には届かないのだ。

「最近、この人の書くものってつまらなくなったよね。昔は面白かったから読んでいたけれども、今は読まなくなった」と、ひっそりと離れていくことがほとんどだから。

 

「他人の文章を読んでいれば、文章力が落ちない」というわけではなさそう。

だって、件の彼女はよく「これ読みました!」と写真をSNSにアップしているんだもの。

本当に読んでいるのかは、わからないけれども。

 

何があるとここまで執筆力が下がり、何があればキープ(もしくは上達)できるのか?

・・・半径5メートル、いや500メートルくらいの世界で生きてる私は、本を複数出版してきた「作家」のこの現状を読んで、我が身に同じことが降りかからないようにするために、何をすべきなのかを考えているのです。

 

 

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