こんにちは、ドクダミ淑子です。
ネットでの様々なことに首を突っ込んでいる、今日このごと。
「様々なこと」と書きましたが、主にネットでの「誹謗中傷」と見せかけた言論弾圧の話なんですけれども。
それ以外にも、日々私のツイッターのタイムライン上を眺めていると出てくる様々な「活動」を見ていて、思うことがあるのです。
今回は、ちょっと耳の痛い話かもしれません。
正しいことなら、どんな方法で行っても構わない?
最近気になっているのは、「私は正しいことをしている、だからどんな方法でも構わない」という人たちが多くなっているのではないか?ということです。
「私は男女平等を目指している。だから、それを妨げている人に汚い言葉を吐いてもいい」
「私は正しい批判をして、悪人をあぶり出している。だから、少しくらい乱暴な物言いでも許されるはずだ」
「この政治家が許せないから、今すぐ♯○○の辞任を求めます で拡散しよう」
・・・こんな風に、「私の考えは正しい、だからそれを知らしめる行動はどういう方法でもOK」みたいな構文。
私はこれに異議を唱えたい。
私の考えは、本当に正しいのか?
まず、「私の考えは正しい」について。
正しいか正しくないか?・・・これは、わからないのです。
正しいかもしれないし、正しくないかもしれない。
確実に言えるのは、「少なくとも、『あなたの中では正しい』ですね」くらい。
対立する2つの考え方があるとしたら、お互いがお互い「自分は正しい、相手が間違っている」と思っているのです。
相手にも相手の「正しさ」ってものがある。
多数派が正しいことが(確率としては)多いですが、中には少数派が正しかったっているケースだってある。
だから、数も、主張の「強さ」も、どちらも指標にはならない。
現代社会では、「科学的根拠」はわりと裏付けになるけど。
ということで、「私の考えは正しい」というのが、そもそも成立しないんですよね。
そんなこと、わからない。
仮に正しかったとしたら、どんな方法でも構わないのか?
次に、「どんな方法でも構わない」について。
少し乱暴な物言いだったり、暴力を伴ったり、周りを騙すような方法を取ったりする・・・ことで自分の「正しさ」を伝えようとする。
私はこれも良くないと思うんですよね。
「暴力は良くない」とか、そういう話ではなく、その世間一般から見て乱暴と思われる手段を取ることで、「正しい/正しくない」という話から視線が逸れて、「正しいか正しくないかはおいておいて、暴力は良くない」みたいな話になってしまうから。
多くの人は、「正しければ何をしても構わない」ではなく、「いやいや、やり方が悪ければ印象も悪くなるよね」と思っている・・・と私は思う。
適切な手段で、相手に致命傷を食らわせたい
別に私は、平和主義者でもなんでもない。
「やるなら、確実に相手にダメージを与える方法で、かつ自分の手をできるだけ汚さない方法で」と考えているだけなのだ。
「相打ちになっても構わん。刺し違えても本望」みたいな手段で、表にドーンと出てくる人を見るたびに、「私だったらもっと上手くやろうと考えるだろうな」と思っている。
何も考えていないのか、考えた上での戦略なのかわからないけれども、突然自分の意見をぶちまけて、拡散されて、批判と非難とツッコミの嵐が巻き起こっている人を見ると、やっぱり「もっと良い方法があっただろうに」と思う。
なんでも「リアルタイム」「拡散」「公表」が良い方法とは限らない
時と場合を考えて、自分のダメージが一番少なく、かつ相手へのダメージが大きい方法を考える・・・と、その答えは必ずしも「公表」「公言」ではないと思うのです。
むしろ水面下で動いて動いて・・・いいタイミングで溜めに溜めたものをドーンと出す、の方がいい場合もあります。
最近は、なんでも「公表」みたいになっているのですが、なんでもネットでつぶやける時代だからこそ、「言いたいけれども言わないでおく」ということが大切だし、そうやって溜めたことで効果を発揮することができることもあるのではないか?と思うのです。
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